ドキュメンテーションアーカイブのみち

事業7

「伝統芸術の現代化_総括シンポジウム」

 

2016年2月6日(土)15:30〜
イロリムラ・プチホール

出演=永田靖(大阪大学文学研究科)、樋口ミユ(Plant M)、 岸本昌也、髙安美帆、山﨑達哉

 


 

山崎:まずは芸術祭のタイトル「伝統芸術の現代化」の意図から。

永田:芸術祭が今年で3回目で最後の年になります。「伝統芸術の現代化」というプロジェクトは、声フェスの7つの事業の1つです。なぜこういうものを考えたかということですが、これは個人的な話になりますが、私の専門は演劇研究で、20世紀の演劇を研究しているんですけれども、近年はアジアの演劇のことを研究したり見たりすることが多くあります。それで、日本の現代芸術とは違うなあと思ったことがあります。それはアジアの現代演劇がその土地やその国の伝統芸術を非常に自由に活用しているということです。「活用」ということも言えないくらい身近にあって、本当に自由に使っている。翻って日本の伝統芸術をみると歌舞伎は歌舞伎、文楽は文楽と分かれている。もちろん部分的には伝統演劇を取り入れる試みはあるんですが、アジアの諸国のように自由に使っているということはなかった。それはなぜなのか。そういうことを考えようと思ったわけです。

山崎:今日のテーマは神楽という、伝統芸術と言っていいのか難しいテーマで、今日のパフォーマンスと展示を見ていただいたと思うのですが、どのような感想を?

永田:私・・・は本日は出る幕じゃないと思っていたのですが(笑)。展示のほうは私たちがこの3年にわたってやっていたことを振りかえっていて、とても面白かったです。一昨年は、能勢の200年続いている素浄瑠璃の伝統があるんですが、その中から人形浄瑠璃ができたんですね。それについて一年半くらいかけて学んできました。もう一つは私にとってのアジアとの出会いということがありましたので、台湾から現代舞踊のカンパニーを呼んで上演して貰ったんです。これは台湾の若い人たちなんですが、南管という中国福建省や台湾に伝わる伝統音楽を舞踊に応用した作品です。両方とも古い伝統芸術、音楽ですが、それらがどう現代に生かされているかを学んだのですが、それの成果が二つとも展示してありました。感想はというと、懐かしい(笑)・・・・違いについては今もいろいろ考えるところがありますけれど。

山崎:アジアで見てこられた融合というのは、今日見られたものに関してははどうだったのでしょう。

永田:とても面白く感じました。神楽というものが、私たちの中に何らかの形で息づいているということは確かにあるんですね。今日演じられた石見神楽と、浪速神楽で、それぞれ成り立ち、生まれ方、今までに至る経緯はちがっているんですが、神楽というものが、私たちのルーツと言っていいのかわかりませんが、何か自分の奥底に触れている感覚がある。私は三重県の松坂って言うところからさらに山の中に入った奈良時代からある村の、寺の生まれなんですよ。こんな話してていいのかな。その村には神社とお寺がくっついているいわゆる神宮寺があり、私にとって神社というのは村の宗教観をつくっているものの一つ。そこには神楽もあった。神楽も私が覚えているのは獅子舞で、神社で舞って貰ったりとか、お正月には一軒ずつ回ってくれたりした。今はそこから離れて大阪に来ていますけれど、そういうものは私の生まれたルーツというか、そういうものにちょっとだけれど確実に触れている気がします。
 今日の作品は非常に面白い造りになっていまして。衣裳とか道具とか、神楽そのものであるという部分と、神楽を説明する部分がありますよね(壁に貼られたポストイットを見て)

樋口:先生どれなんですか?

永田:僕は「神社」。何も考えなかったんでもう、あそこの消してあるやつね。書こうと思ったんだけどもなんかやっぱりやめて。まあこういう神楽を説明するっていうところと、神楽を使って表現するところが混ざっていましたね。作品では最終的に僕らの時代、現代まで戻って来るわけですね。つまり、私たちの中に神楽とか信仰とかが生きているのかなって、疑問符を投げかけて終わる。それは非常に面白かったです。僕が感じている三重県の村の神社を「ルーツ」だと思っているのは本当なの?って突きつけられた感じ。

山崎:樋口さんにおうかがい。最初に「伝統芸術の現代化」という枠で『祭礼』をやるというお題をもらって、どう考えられたのかっていうそこと、今の感想を聞いてどうですか?

樋口:ありがとうございます。「現代化。..」私たち2013年に初めてこのチームで『祭礼』をやって、今回入れて4回やっているんですけれども、4回とも内容、構成がちがって。また二年目は、全く神楽と関わりのない小劇場の役者さんと。3回目はその役者さんを入れてトライアングル、トリオで旧出雲大社駅、で、今回は4回目だから、「現代化」って改めて言われたとき、そんなに意識はしていなかったけど、じゃあ改めて「現代化」って何なのかって、稽古のときにみんなで話をしたときに、「個人化」なのか?って。神楽ってすごく匿名性があるものだって。神楽のことは全部二人を通して教えてもらっていて、神楽っていうものは匿名性が高いものだと。じゃあ現代化って、それを自分の個人的名ものにするものなのか? 匿名性が高いものより自分たちのものにする。そのとき自分たちのものにするっていうことは、言語化しなければならないんじゃないかと思っていて。でも個人化とか言語化とかを突き詰めると、誰でもない人、匿名性の高いものから、私とか岸本くんとか高安さんという個人になる。その個人をもっともっと突き抜けていくと、匿名性ではないただの人間というものが浮かび上がってくるんじゃないかなあ、と思って作り直しました。だからどんどん脱いでいくんですけれども。そしてあの・・・永田先生をこっちに案内したのは、こっちに永田先生を座らしたら、高安さんが脱いだときに永田先生がびっくりするんじゃないかと(笑)。心配になって、ちょっと離れたところに座ってもらおうと。–なんか、神楽とはなんだろうみたいなことを、私たちはずっと稽古のなかでたくさん話をしたんだけれども、これでもないあれでもないっていうのをどんどん剥いて、–
タマネギの皮みたいにね、どんどん脱いでいくと、中は何にもない空間みたいなものが残った感じがしているんです。でも何もないっていうことは、なんでもあるということでもあるなあと思って。だから神楽を現代化するっていうときに、何にもないけどなんでもあるっていうところというのは、どんなに違っても絶対に変わらないんだなと。でも周りの玉ねぎの皮みたいなことは何か
突き抜けて人間になるっていうのと、人間の中心みたいなものも空だと思う。中に何が入るかと考えて、この中の空間みたいなものを大事にはしてみた。

山崎:そういう話し合いをされていたときに、お二人から何か、自分と違う神楽に際して、現代化もしてということに関して、何か変わってきたことなどありますか。まずは現代化ということに関して

岸本:僕は神楽を始めたのは高安さんみたいに小さい頃じゃなくて、大学生くらいになってからのことだったんです。教えてくれる人から教わったことしから知らない。だから神社や神楽を研究している人みたいな、言葉としての知識は全くなくて、手はこう、これくらい下げる、そういう体感でしか神楽は知らなかったので、初めて違う神楽に出会って、言葉化して、3年経って初めてわかったことがある。

高安:これまでやったことがない取り組みを3年前に私たちは始めたんです。私は浪速神楽の舞手でもあるけど、現代演劇の俳優として活動していて、彼もそうです。たまたま樋口さんが結び合わせてくれた。そのときやり方がわからなかった。

岸本:これは神楽なのか、、、

高安:そうですね。そこで今回「伝統芸術の現代化」というお題があり、3年目になる『祭礼』をまたつくるってなったときに、お互いの神楽のことを話す時間を持ち、かつそれを乗りこえて教えあうとか学び合う中で、違う神楽をつくるということを、3年目にしてようやく取り組めたという気がしています。

岸本:俳優として、ですね。神楽のこうしなきゃならないということをちゃんと守っている人もいて、

永田:例えばどんなのが、やっちゃいけないことになるんですか?

高安:まず・・・。

樋口:何そのリアクションは(笑)。

高安:浪速神楽は神事ですから、ほかのところでやること自体、それはちがうということとか、装束をよそで使って良いのかとか。しきたりが村ごとにあると思います。決まりごとがかっちりあるものを、現代化する。こういう場所に持って来る時にどうしたらいいかっていう事を、一個一個樋口さんと相談しながら作りました。例えばお鈴をここで振るなんていうのもねえ。そういう何か引き裂かれる思いがありながらも現代化せずにはいられない思いを持つ二人が、ここで舞ったという。(笑)

樋口:私は神楽とか神事みたいなものが自分の生活の中になかったから、二人にやって貰っている中で、二人の苦悩が見える。それは衣裳を脱ぐにしてもね。私も一瞬、「怒られるかなあ」って言っちゃうんですよ。神さまがこんなところにおるかもわからないのに。最後二人が踊っていくところがあるんですけれど、そこでこう、わーっと二人のジレンマみたいなものが見えてくるんですよね。伝統芸能っていうのは、地域で行われて、地域のお師匠さんがいてて、外に出て行かないっていうものなのに、でも現代化せずにはいられないっていう気持ちが二人にはあって。稽古の過程でそのジレンマが見えてきて、いやあ、面白いなって。小劇場ではそんな問題って見えてこないから。

山崎:樋口さんはルーツに神楽はない、舞手でもなんでもない。舞う方の二人は現代化せずにはおられない。現代演劇をやっているからでしょうか?神楽をやり続ける中でもっと広いところでやろうと思いましたか?

高安:神楽だけやっていたらそれは思いませんね、現代演劇の俳優をしているからだと思います。現代演劇に携わり、「伝統芸術の現代化」で他のアジアの作品を見たり、リサーチに行ったりしてゆく中で、せずにはおられなくなってきたといいますか・・・

岸本:ただ、神楽がずっとやってきたものだったとしても、例えば今僕が別の土地の神楽をやるのでも、こんなに交通が発達して、新幹線とかで島根からすぐ教えに来てもらうことができる、しかも今その時代を生きている人がやっているというだけで、すでに半分現代化になっているところがある。さっきも言ったように、中が空洞ではない、儀式ではないという点ですでに現代化になってしまっている。僕は先に神楽を初めて、演劇が後だったんですよ。人の前に立ってやるというところで、神楽には見る見られるという関係がある。なんで見る見られるという関係があるんだろう、人前に立って何かをするっていうところを考えたくて演劇を始めたところがあるので。俳優として作品に関わるというときに、そういう現代化せずにはおられないというところはあります。

山崎:新幹線っていう言葉が出ましたけれど、現代だからできること、昔だったら旅しながらまわったりだと思うので、かたち、中身のことより外に出すというところで現代化ということがありまして。こちらのclefのほうでは受講生のみなさんに展示をつくってもらっていまして、自分で見た神楽をそこで発表するっていうかたちをとっているんですけれど、そこで発表するっていうこと自体が、閉まっていた、クローズドであるものを外に出すっていう意味があると思うんです。

樋口:それ説明してもらってすごい納得する。昔は山と山の間にその地域のためそこに住んでいる人のために神楽があったけど、今は容易に外に出せる。それがすでに現代化っていうのは、すごい言語化されているって、話終わってもうたって(笑)。

高安:外に出していくときに、リサーチしながらやるっていうことが大事なのかなって。

樋口:表現としてやるときは、土地のしきたりだったりするものってわからないんだけど、ものすごく単純に、これ面白いなっておもったんです。高安さんが初めて舞っているのを見せて貰ったとき。最初、ダンスってなんかわからんのやろうとおもっていた。言葉の人間なので、ダンスって「炎」みたいなことすんのかなとか(笑)。どう見ていいんやろと思っていたのに、いざ高安さんが舞ってくれたとき、20分か30分あっちゅうまに過ぎてしまったわけなんですね。繰り返しのこの動きって言うのが、こんなに面白いものがあるのなら、何か一緒にできないだろうかと思ったのが最初だし、岸本君もこのぐるぐる回る繰り返しの動きっていうのが、なんか私には言葉に見えたんです。なんでこんなに長く黙って見ていられるのだろうかと言った時、二人とも「神楽の動きには全部意味があるんです」って教えてくれて、ということは二人は無言で踊っているんだけど、型というものが染みこんでいる二人は、無言で舞いながら語っているんだなあ。だから舞われると見てしまうんだ。だから私には神楽はすごく饒舌に思えて。でも言葉がないから、空間が私の中で宇宙にまで飛んでいくと思ったんですね。だからみんなもっとこれを・・・ただ濫用するとかね、形だけをとってしまうっていうのは問題だなあと思うので、舞手の二人に表現者も教えられながら一緒に創作するっていうのは、非常に有意義な体験だったと思うんです。

山崎:さっき、これはできる、これはできないっていう話がありましたけれど、譲れない部分は?

高安:「なぜそれを譲れないのか」という話は沢山しました。

山崎:神楽の部分をどこまで守るのかっていうことかとも思ったんですけれど。

高安:守るということではなかったと思います。私たちは神楽を舞いますが、神楽の伝統を守る伝承者ではないと思っているんです。伝統をきっちり守っておられる方々は別にいますから。だから、私たち二人がこれは「できないです」ってとっさに樋口さんに言うとき、なぜそれができないと感じているのか。理由は、歴史や土地のしきたり、家族のことだったり様々でしたが、それをどういう形で乗り越えてみようか、、、と話し合いを沢山持ちました。

樋口:稽古といっても、演劇みたいに言葉があって・・・とまた全然ちがう。二人が「すいませんこんな、関係ない話して」って言うんやけど、神楽とか表現とか演劇とかについて話をした後、一回通しをしてみましょうか、と見てみたら全然変わるんですね。だから型で一生懸命繰り返しの稽古をするというのではなくて、今自分たちは何を考えて、この舞をするのかということに、時間を割いた方が、一回の通しが効いてくる。

山崎:一番最初に永田先生が考えられた「伝統芸術の現代化」という構想といっていいかわからないですけれど、そことこの神楽の企画がどう混ざっていっているのかな。日本には神楽があるじゃないかって。

永田:いや面白いと思いますね。能とか歌舞伎とか、きちんとしたものが家元性の中で構築されてきた。神楽も、家元性じゃないけど土地のしきたりがあって、その中で守られてきたものがある。でも、こういう試みっていうのは許されている・・・(笑)かどうかはわからないけれど、自由にされていて。この作品はもうこれで3年目で4回目の上演になるんですよね。なんていうか、あの、外国人にこれは神楽なんです、と見せると「じゃあ神様はどこにいるの?」って言うと思うんですよね。そうすると、神様というのはこの場合何なのかという、そういった大きな問題も投げかけているような面白いパフォーマンスだった。
 さっきの話の中で面白いと思ったのは、見る見られるという関係になるって岸本さんがおっしゃったことです。舞っているときに、神前で神様に向けてやる場合と、ギャラリー、お客さんのためにやるのと、見る見られるの関係が、お芝居と違うと思うんですよね。お客さんだけではなく、神様にも向いている。神様からも見られている。一般のお客さんからも見られている、と。その時の視線が、神様からとお客さんからとでは意味合いが違うと思うんですけれど、そんなことは感じないですか?

岸本:僕のやっている神楽が、高安さんがやっているものよりかなり俗世間化している…。

永田:見ましたよー(笑)、去年、石見神楽を。巨大なおろちが出てくるのを。

岸本:もともとは神事で、それがかなり芸能化されてしまっている。厳密に神楽と言うと芸能ではないので・・・わかんないんすけど。

高安:「知らんけど」(笑)

岸本:目線が違うってのは・・・

永田:普通に芝居をしている感じと「違う」っていうのは、どんなですか?

岸本:神楽をやってるときは、あんまり結構何も考えていない。次の段取りのことばかりで、見られているからどうとかいうことは考えていない。一方、現代劇の俳優としてしゃべったり体を動かす時には、全然違うことを考えているんだろうな、と。じゃあその人は何を考えてやっているのかと。演劇は自分の中から動機を探して演技をやっている。神楽はできるだけ中を空にするというか。意識的にやっているわけではないけれど、そういうのはありますね。

樋口:そこも初めて舞ってもらった時にすごく不思議で。二人は舞っているとき何を考えているの?って聞いた時、二人ともその時初対面やったんですけれど、同時に「何も・・・」って言ったんですよ。だって自分たちは容れ物だから、器になっているから何も考えないんですって。役者とまるきり反対なんですよね。私は逆に二人の脳の構造がどうなっているのかって、今度知りたいなと思って。今度二人にこう脳波のセンサーみたいなやつつけてもらったら、確実に違いが出るんじゃないかって。舞っているとき、表現拠りになるときといろいろあるので。舞ってるときは、その空になっていて、何かしゃべっているときはここが赤くなるとか青くなるとかいう研究が今度できるかなって。

永田:ずっと演出をされているんですよね、『祭礼』の。今回冒頭に、我々観客のイメージの言葉を持ってこられたのは?

樋口:展示があるから、これも展示になればいいかなって。

永田:ああ、そういうことでこれを。今まではこういうのはなかったんですか。

高安:11月22日に声フェスでWSをやったんです。そのときに同じようなことを受講生とやったんです。

樋口:私が持っている勝手な神社とか神楽のイメージがあるでしょう。巫女さんであったり、神社パワスポとか(笑)、すごい俗っぽい頭やからね私。これ私だけが思ってるのか、他の人は神楽に対して何を思っているんだろうと思って、受講生の方に、縄跳びをしながら神楽について思い浮かぶことを言って貰った。みなさんもう必死で(笑)。一個すごく面白い発見があって、縄跳びで必死の時は「お金」とかやったら俗っぽい。

永田:本心が出る(笑)。

樋口:そう。ただものすごくゆったーり動いている時は、詩的ないい言葉が出てくる。縄跳びだと「お布施!」「お金!」。それをもとに今回の演出をしました。

山崎:パフォーマンスの最後に、今日だけ受講生に混ざってもらった。

樋口:そうなんです。受講生のみなさま、どうもありがとうございました。

山崎:最後の場面にその連想でしゃべるっていう部分があったんですけど、高安さんがさっきもおっしゃった「知らんけど」ってよく出てくるなって。何かあったんですか。

高安:そうですね。

山崎:あれたぶん、縄跳びのときにも出てきてた気がするんですけれど。

樋口:テキスト構成するときに「知らんけど」をちょいちょい入れてみたのは、二人が神楽のことを説明してくれるときに、「僕のとこではこれはこういう意味やね・・・でも他のとこでは知らんけど」「私のところではここはこうと教えられるんです・・・いやでも他所では知らんけど」ってよく出てくるんです。神楽の舞手が結構連発していたんです。それで面白いなと思って。でも人って結構知らんことをしゃべる・・・大阪のおばちゃんとか、「いやあんたしゅっとしててかっこええわ〜でもなんたらかんたらで・・・いや知らんけど」で終わらす。知らんやったら言うなよなって(笑)。でも知らんことでも人は、なんかしゃべったり表現したりしていくから、知らんけど触れてるなって、知らんけど実は私の生活の中に入りこんでいるなって。それに「知らん」って、自覚していたら今度は知っていけるでしょ。そういうのもあって、ぱくりました。二人から。

山崎:出演した受講生の二人からは何かありますか?出演するってことになって。

津村:たまに詰まるときがあったんですが、でもあの必死な縄跳びの状況では・・・あれねえ、跳ぶタイミングも考えながら、しゃべることも考えながらって、ものすっごい負荷がかかってねえ。次の日すごい筋肉痛で・・・

樋口:すみません・・・(笑)。

津村:全く歩けなかったんですよ。で、あ〜、出てくる言葉は確かに変わってくるよなあと思います。ああいう連想って日頃することがないので、非常に面白いなって。これ以外にも何か、日頃のコミュニケーションにも活かしていけそうだなと感じました。

日笠:どうもありがとうございました。ああいう状態で連想って、自分が考えている、素が出るのかなあって。個人化とか現代化に少しちかづけるのかなあって思ったのと。リハーサルで、通し稽古を見させて貰ったときに、ちょっと脱ぎ始めた時にどきどきしてしまって、え、これやっていいの?って。でも樋口さんがおっしゃったように、じゃあ誰に怒られるのって考えたとき、誰のものでもないしっていうようなことも考えて、まとまりがつかないけど、もともとほとんど知らなかったのに、こうやって参加することで神楽のことを考える時間があったのと、自分の周りの神楽を改めて探してみたら、たくさんあったんですね。それでどんどんお話ししてみると、その人達自身は伝統芸能と思っていても、じゃれ合っているというか、生活に密着している。まあ獅子神楽だからかも知れないけれど。例えば話をしているうちに「巫女神楽もやってるんやで、去年から」って。「去年から?」どういうことですかと聞けば「いや華やかだから」と言って。やっている人たちはいろいろ取り入れているというか、それで「ほかのことは知らんけど」って言うんです。(笑)他の神楽講のことはあまり気にしていない、という風にお話ができたことが、私には収穫でした。

山崎:日笠さんは展示のほうもなさっていて、この芸術祭自体が「リサーチとしての芸術祭」っていうことをうたっているじゃないですか。そこでみんなでリサーチしながら何かを発表したりっていうことが、両者が混ざっているのが面白いんじゃないかって話も出たことがあります。学問とアート。そこで、「伝統芸術の現代化」を、この名前を借りたいという話が出ていて。この名前を使いたいという話が出ているんですが、「声なき声・・・」っていうのはなくなるかも知れないけれど、この「伝統芸術の現代化」をそんな風に使っていくことに関してはどうですか?

永田:どうって・・・(笑)思ってもみなかったことで、光栄なことで。それぞれでやっていただいたら、私もほ、本望です。

山崎:永田先生から、アジアで見たようなものが日本にないって言うときに、ここにあるじゃないか、と。

永田:そうそう。だからもっと自由に・・・本日見てまして、何かそんな風に思った10年前とは違ったなって思いましたよ。こんなに自由に、伝統がしっかりあるものを、こんなに自由に使う試みはなかったように思っていましたので。こういう試みは続いていくと、僕としても嬉しいですけれど。

高安:学問と舞台芸術の現場にいる人が両輪になって動いて、今回の声フェス受講生のようにリサーチしてくださる方と三者で動いていったらすばらしいものが生まれるんじゃないかって。これで終わらすのは・・・。

樋口:何か続くといいですね〜(笑)。

永田:ええ、先立つものも必要ですが・・・ええ、続くといいですね。

山崎:何かしらで続けられると。

永田:いいですよねえ。

山崎:観客のみなさんから何か。

観客1:お二人に質問です。こういうことされてると、神楽仲間からはどう言われますか?

高安:・・・まあ、うん。

樋口:口、重たい(笑)。

高安:私がなぜこれをやろうとしているのかということは、何人かのお世話になっている方にはお話ししています。でもわかりあえないこともある。

山崎:それはなんて説明しているんですか?

高安:私自身は、神楽をやっているけれども、現代演劇もやっているので、現代演劇のフィールドで神楽を考えたいということは話しているのと、神事としてはやりませんということを説明しています。浪速神楽は神事ですので、神さんのことがいちばん大きいですね。あと具体的にいうと、私が小さい頃に習い覚えた舞の型が、私の身体に染み付いている。それを舞台芸術の分野で捉え直すことをしてもいいですよね、とお世話になっている方にお話ししました。どこまで理解していただけてるか、わからないけど。

岸本:僕の神楽・・・っていう言い方も変なんですけれど、僕がやっている神楽は芸能化されている。パフォーマンス化された経緯があるんですけれど。どういう風にしゃべっているのかは高安さんと同じ「現代劇の俳優として何かをやります。その時に神楽の身体性を借りている。」というスタンス。神楽をやるわけではないし。実際自分も神楽をやっているという意識ではなくて、たとえば小さいときに楽器をやっていて、その楽器を劇中で演奏するとか、バレエをやっててバレエの形を使うとか、そっちのほうが近いんじゃないかって、自分のやってることに。そういう説明をしているので、「じゃあ、機会があったら行くよ」って言って貰ったり。

山崎:今ので、ご納得いただけましたか。

観客1:言いにくいことをすみません。

観客2;これも言いにくいことになるかも知れませんけれど、さきほど司会の方のご質問にもありましたけれど、決まり事でできるできないで苦悩されていたことを、具体的に詳しく。

山崎:例えば舞について。この動きはできないとなったときにどうしましたか。

高安:私の中で舞の型は型でしかない。型を崩していくこと、バレエもそうかもしれないけれど、そうするときに何か、だめ・・・なんじゃないかなと・・・思うってことですね。私は今回、石見神楽の舞の型を取り入れていたんですけれど、そういうことだったり、ある型を勢いに任せて崩していってしまうこと。それはもう神楽の舞じゃないんじゃないかと悩みました。3年前に初めて樋口さんと「祭礼」を上演したときは、かなりがちがちに浪速神楽の型をやっていました。っていうのは崩すことができなかったんです。型を信じているし、それのどこをはずしたら神楽じゃなくなるのか、はずしてもそれでも神楽といえるのはどこなのかが、3年目にして・・・という感じです。3年前は神楽の現代化をやりたいと言っている自分自身が、型から抜けることができなかった。

山崎:例えば今は扇を持たないで舞うっていうのも。

高安:持っていましたね。

樋口:一回目は高安さんはこの巫女さんの衣裳で、岸本君はいつもの白ブラウスでズボン。踊ったときに、高安さんのほうは、衣裳を脱いで踊る人がいるのだと。

高安:まずそれが驚き(笑)。

樋口:2年目にして、高安さんも白ブラウスに赤のスカート。あれは初めて装束以外のだったんですかね。

高安:あの時初めて、「あ、スカートでも舞えるんだ」と。そうするとちょっと動きが変わるところもあるだろうな、変わらないところもあるのかなとか。