ドキュメンテーションアーカイブのみち

事業5

「みんなが好きな給食のおまんじゅうーひとりの傍観者と6人の当番のためのー」アフタートーク

 

2015年12月12日(土)13:30〜
大阪大学会館 21世紀懐徳堂スタジオ

トーカー:三輪眞弘+伊東信宏+芸術祭フェロー

 


 

伊東:日本で最も充実した活動をされている方で、こういう手作りっぽい作品も作られてますけれども、オーケストラのための作品も作られていて、リンツのアルスエレクトロニカという、メディアアートの世界では一番有名なフェスティバルでも賞をとられた。あの時は、何で賞をとられたんでしたっけ?ボレロでしたっけ?

三輪:えっと、他の作品にも言えることなんですが、逆シミュレーション音楽という音楽の、作曲の、コンセプトを、僕は随分前に考えて。その音楽のコンセプト自体が、認めてもらえたということで、個々の作品というよりは、それによって生まれた複数の作品があって、それら含めて

伊東:あの時、リンツのオーケストラがオーケストラ曲を演奏したんですよね?

三輪:はい、そうです。3分の2ぐらいの弦楽器プレーヤーにボイコットされましたけれど。

伊東:ちゃんとやってくれなかった

三輪:悲しい思い出です

伊東:そんなこともありの。それからあと、フォルマント兄弟というユニットでも活動されていて、三輪さんがお兄さんで、左近田さんという弟さんがいて、弟さんというか

三輪:父親違いの異母兄弟ですね。

会場—笑

伊東:他人だということなんですけれど。

会場—笑

伊東:その二人でつくられているユニットがあって。それは、声のシミュレーションみたいなこと

三輪:そうですね。人工音声をリアルタイムで演奏するという。操っているというか、歌わせるという。

伊東:そういうユニットでも活動されているようなことを、普段されているんですが。今日は、そのなかの「みんなが好きな給食のおまんじゅう」という作品がありまして、これ実は楽譜があるんです。楽譜というか指示書みたいなものがありまして、それに沿って上演したんですけれども。みなさんから、ご意見をお伺いしたいんですが。僕が把握している範囲では、逆に、聞いている方々がどういう人達か、まず上演した人たちがいます。それから僕の授業をとっていて、可哀想に見に来さされたという、わけのわからず来さされた人という人もいますし、古くからの知り合いもいます。僕がわからない人たちもいる。多分このチラシを見てきていただいた方もいるんだろう。

三輪:チラシを見て来られたという人は、どういう

伊東:なんか共鳴した人なんでしょう

会場—笑

伊東:僕は、これを上演する前から、ずっと頭を悩ませていたんですが。三輪さんにも言っていたんですが、食べ物を粗末にしていると言って、批判されたらどうしようと悩んでいたんですが。三輪さんも考えられていたと思いますが。

三輪:ま、受講者、参加者の方に説明する機会があったので、重なることにはなりますが、チラシをみて、参加される方もいらっしゃるので、少し作品の背景について話したいと思います。伊東先生に何か作品を発表しないかとお話しをいただいて、これを、今回のプロジェクトのチラシをみて、「声なき声、いたるところにかかわりの声、そして私の声」という非常に長いプロジェクトの名前、タイトルだと思うんですが、今ちょっと、紹介していただいたように、声といえば、なんといっても僕にとっては、フォルマント兄弟の人工音声、歌唱みたいなものが、ダイレクトにぴったりだろうと、思っていたんですけれど、このチラシをいただいて、全体の理念というかコンセプトみたいなことが書いてあるんですけれど、多くのみなさんご存知かもしれませんが、ちょっとだけ読むと『3つの声に注目しています。「声なき声」とは、個人や共同体の「記憶」や抑圧された声、そして記憶の彼方に埋めてしまった感情など、普段は表に現れない、内奥に秘められた声のことです。』と、書いてあるんです。これをみて、すぐに今回の作品をできたらと思ったですね。食べ物を粗末にするというよりもまずは、基本的に、これいじめの作品です。いじめるんです。どういう風にいじめるかというと、極めてアルゴリズムに従って、システマチックに、規則に従って、機械的にいじめる作品です。その中で、もちろん食べ物を粗末にするということにはなるんですが、僕もそれは、批判されてどう答えるかというのは、悩みました。悩みましたというのは、絶対に口に押し込んで、無理やり食べさせる作品にするということを、なぜか直感的に決めていたので、まずそちらが先にあって、その時にどう言い訳をすればいいんだろうと、いろいろ考えるわけですけれど。基本的に言い訳はできない。けれども、例えば、作品をみて、どんな風に感じるかは本当に自由だし、非常に多様だと思うんですけれど。例えば、食べ物というものについて、粗末にするということは、どうなのよと、すぐにインターネットで調べると、日本はアメリカを抜いて食物の廃棄率が高い。世界でもトップなんだと思うんですけれど、そういう国らしいです。で、、、、。で、もひとつ僕言うと、テレビなんかで大食い競争をやりますよね。そういうものに、もの凄く反感を感じるんですね。それこそ、食べ物をおもちゃにして、競争させるという、ということを、見世物にするとは、なんというセンスなんだろうと思う方なんですけれども。その上で、これだけは、意識をして、しかもいじめの儀式として、、、、、やるべきだと判断した。だから、言い訳は出来ないんですけれども。僕の、考えの流れは、そういうことになります。

伊東:僕も、尻馬に乗るわけではないですけれど、三輪さんは、とにかく、こういうことをしたいと思ったったのが、作品の出発点だとおっしゃったのは、前お話しした時に聞いたんですが、こういう作品を自分もやってみたいと思ったのは、確かに。。。。

三輪:参加していただいて、ありがとうございます。大変恐縮です。

伊東:なんというか、こちらからお話しするというつもりはあまりないので、いろいろご意見をお聞きしながらいきたいと思うんですが。どうしましょうかね。

三輪:逆にいうと、僕の方は、ひどいじゃないかといって、怒ってくださる方がいたら、もちろんその方が、歓迎なんですけれども。そのつもりで、意を決して作品をつくっているわけですから。どうぞ。そういう気持ちです。

伊東:そういう意見を含めて、まずはやった方から。

A:初めまして。奥の方のグループで、まんじゅうを食べていた。***です。僕は、歯学部で、来年の春から歯医者さんになるんですが。三輪さんと伊東先生にとって、音楽とはなにであるのかというのを聞きたいです。

三輪:ディープな質問ですね。

伊東:どうぞ

三輪:えと、まぁだから、まさにやっていただいたこの作品に関して、考えていただきたいんですけれども、これが音楽か?音楽の演奏なのか?ということは、必ずしも自明じゃないんだろうと思います。なので、これは、音楽か音楽じゃないかという境界線みたいなところは、僕自身作曲をやるので、考えざるを得ない。特に、現代において、音楽というのはなんなのかということは、そもそも音楽は意味をなしているのか?ということまで考えなきゃならない。多分、みなさんもご存知でしょうけれど、普通音楽といったらば、非常に多くは、西洋の楽器ですよね。西洋の楽器とは限らなくても、いわゆる楽器を操ったり、歌唱の練習をしたりするそういう音楽のスタイルというものが、まぁ、伝統的にあるし、利用(普及?)されたものがあるわけですけれども。基本的に、僕は、そういう音楽というのは、新しく作るものとしては、100年前に終わっているものと思っています。そのうえで、僕が音楽というものを定義するとすれば、ある種の奉納だろうと考えています。つまり、ご存知のように、日本の伝統芸能は、基本的に奉納ですよね。神様に捧げるものですし。そんなことをいえば、お相撲だってそうです。スポーツではなく奉納されるものとして存在するわけですね。で、そういう意味で、音を使って、というところは、必ずしも絶対ではないんですけれども、基本的に奉納される芸能として、僕は作品を作っています。その多くの場合は、今も言われたように、オーケストラのための作品もそれはありますし、逆にいえば、僕はシューベルトやシューマンのリサイタルを聴いたときでも、基本的に奉納として聞くわけですね。ピアニストや演奏家はそうじゃないと思っているかもしれないけれど、僕としてはそういう受け取り方をしているし、それ以外にあまり音楽をやる意味を感じない。もうひとつ付け加えれば、エンターテイメントもあると思います。娯楽ですよね。娯楽としての音楽はもちろんあると思うし、そんなものはくだらないと僕は決して言おうと思っているわけじゃないんですけれど、自分が手がけるものとしては、エンターテイメントではなくて、基本的には奉納だと思っています。ここで一応やめますけれど、奉納だと言った時に神様はいるのか?とそういう話にどんどんなっていくんですけれども。聞かれれば、答えますけれど、やめておきます。

伊東:僕にも聞かれたみたいなんで、一言だけお答えしておくと、ほとんど重なるんですけれど。僕は、イタコだと思っています。異界との交信みたいな。普段我々が見ている世界と違うものが見えてくるのが、多分音楽だろうと今は思っています。これは、あまり、掘り下げるより他の人の意見を聞く方が。そうか、あの、返信がありますか?

A:僕ですか?僕は、ずっと音楽は、自己表現。自分を表すツールとして、音楽を扱ってきて、自分の気持ちを素直に表現できた時が一番幸せで、それを見ている人が、例えば、僕が幸せな気持ちを体全体で、表現しているのを見て、会場にその空気が共感されて、ふぁーと広がった時に、感情がこう、つながった先に、波がぶぁーとひろがった時に、すごい気持ちよくて、そこには何かわからないけれど、エネルギーが波というか、そういうのを束ねるのが音楽かなと思っていました。定義じゃないのかもしれないけれど。

三輪:わからないでもないけれど。でも、自己表現と、最初言ったけれど、今言った、ふわーと広がるもの、、、、の、起源というのは、本当にあなた個人にあるのかというのは、僕は結構、、、つっこみたいたいところではありますね。

A:自分でもわかっていないので、つっこんで欲しいです。

三輪:あの、だからね。特に、クラッシック、ロマン派の時代の西洋音楽の作曲家に対するイメージというのが、ベートーベンが、森を散策していたら、啓示を受けて、要するにインスパイアされて、この曲が生まれたんだ、とか。それから、マーラーやブルックナーでもいいですけれども、そういうものの精神性みたいなことが、、、、よく取り上げられて、つまり、作曲家の感性や、精神性や、そういうものが表現されたのが音楽なんだという考え方というのがあると思うんですけれども、それを完全に間違っていると僕は言わないんだけれども。でも、作曲家個人に、何かおおもとがあって、それが表現されることによって、、、聴衆はその作曲家に共感するんだというような、捉え方というのは、僕はあまりしていないんですね。。。。。ここでやめておきます。

伊東:もうちょっと、具体的なところからいきましょうか。今日、せっかくこの作品があるのでね。また、ひょっとしたら、こういう話しに戻ってくるかもしれませんが。

B:戻りそうなんですけれど -笑。あの、小さい頃からピアノをやっていて、三輪さんのお話しを聞いた時に、音楽は奉納だとお話しを聞いて、実は、すごく納得してしまったんです。えと。人前とかで、舞台でやる時に、イタコになれればいいのに。先生のお言葉を借りるとね。イタコになれれば、最上級、満足だなと思うんのになという風に実感していて、今日出演者の方で、やらせてもらったんですが、最初の方がしどろもどろだったのが、最後の方は、割と没頭できる。その奉納というか、極端な話、自分も捧げ物のみたいな気分にちょっとなれた、単純なリズムで。それが、狙いみたいなところもあるん、、、、ですかね?

三輪:作品によりますけれども、これ以外にも、例えば、作品で「またりさま」という一番初期の作品があるんですが、8人の人間がやるんですけれど。練習していると人間ひとつのことに集中するとこんな簡単にトランス状態になるんだ。これだったら、新興宗教なんかつくるの、俺わけないなと思ったことがあるんですが(笑)あの。そういう部分って、側面があると思うんですけれども、その仕掛けみたいなところが、、、、僕が一番関心のあるところで。つまり、奉納なり、儀礼でも何ていう言葉でもいいんですが、どうやって成り立つのかということで、いわゆる、なんていうんだろう。昔だったら、本当の神様っていうものを、なんらかの形で設定して、することは、難しくなかったかもしれないんだけれども。少なくとも僕は、宗教家ではないし、そういう意味で、一直線に神様というところにはいかないんだけれど、今日の作品についていうと、あのルールですね。移動のルールがあって、そのルールに従ってみんな動いているわけです。そのルールは。蛇居拳算というね。計算、演算式があって、それに従って、ひとりひとり、三つの状態を持っていて。覚えていらっしゃると思いますけれど、四隅に立っている人は、こっちに行くか、こっちに行くか、四角の二辺のどちらかに行くか、対角線上か、三つの方向だけで移動しているわけです。それを演算によってやっているわけですが。なんかね。そのシステム自体は、「おまんじゅう」という作品が最初なんですが、この移動の規則を使って、少なくとも、二作品僕は、作っています。同じ移動の規則なんです。ふたつめは、おまんじゅうを食べさせられるんじゃないんですけれども、合唱曲です。三つ目は、サントリーホールでやったんですが。ふたつのグループがあって、それぞれ、ある楽器が、移動する人に対応しているんですね。楽器のプレイヤーは、自分の対応する舞台上の移動する人の状態をみて、出す音を決めている。状態と場所だ。場所と状態で、音を選んで演奏するという、そういう作品です。話しを少し戻しますと、多分、これはひとつの移動の規則ですね。つまり、「おまんじゅう」の作品にはたぶんレベルがふたつありますね。それは、規則のレベルとそれにプラスの物語のレベルと言えばいいかな。今回の作品は、おまんじゅうを食べさせるいじめという物語の中にあるわけだけれど。規則自体は、物語に含まれているわけじゃないです。そういう意味では、移動の規則は、なんというのかな。ある種の儀礼のマトリックスつまり、原型、母型、鋳型みたいなものとして、あるんだろうという風に考えて。あれ、質問なんだっけ?

伊東:今日初めてご覧になった方からすると、多分、そういうルールがあって、それに基づいて動いていると、結果的にあぁいうことが起こるという、そういう仕組み出来ているんですけれども。さっきの、個人の表現とかいうのは全然ない。実際に演じている人は、自分はこれはいいと思っているか、悪いと思っているか、悲しいか嬉しいか、全然関係なく、ある入力に従って出力していると、コンピューターのチップになったような、そんな気分になる作品だと思います。それが、トランスにつながる。さっきおっしゃったような。薄暗い場で、同じ一定のリズムでやっていたら、意識がとぶというような瞬間があるかもしれない。

三輪:なんらかの従わないといけないものがないと、それはなかなか成立しない。自由にやっていいよ、というのは、基本的にはそういう状態にはならないんです。そういう意味で、マトリックスというのは、どうしても必要になってくると思います。

平良: 今日上演させていただいた平良と申します。さっき、物語と規則というお話があったと思いますが、、、、規則に従って、行うことが奉納になる?

三輪:そうですね。もし、儀式だとしたら、式次第ですね。基本的に。

平良:物語自体、曲の中の物語というのは、奉納、、、、奉納の内容には含まれないとお考えなのでしょうか?

三輪:いや、、、含まれないとは言わないんだけれど、物語なしでは、意味をなさないということかな。

平良:ということは、奉納とは別次元の話であると

三輪:その通りです。もっと言えばね。人間がこの世界を理解するのは、物語でしか理解できないんだと僕は思っているんですね。つまり、何をか見てを理解するのに、この世界はこんな風になっているんだというのは全て物語で。その物語という形式でしか、人間は世界を把握出来ないわけだから、その物語は、なんらかの物語は絶対必要だと思うんです。ただし、僕は相対化、個人的にはしているので、同じマトリックスでも、違う物語というものがあり得るんだろうと思うし、実際にそう。別の曲をつくっているということ。

平良:ありがとうございます。

山崎:トマトを食べた山崎です。トランスの話しにちょっと戻りたいんですが、これ、1周したら最初の状態に戻ったら曲が終わる。大体10分ぐらいで戻るんですが。トランスということを考えると、もっと、ずーっとやり続けるというのは、面白いなと思うんですが、その10分ぐらいで終わらせた理由はありますか?

三輪:終わらせた理由は、それは非常に現実的な制約かな。つまり、始めると2時間かかりますとなると。。。違うことをいろいろ考えないといけなくなるというのはありますけれど。ただ、8分でなく、12分でない理由は、規則が一周して初期状態に戻るからですね。それは、システムにとっては特別なポイントですから、そこから選ぶということはあるけれど、これは48周やりますというんだったらば、それはまたやってみてもいいと僕は思っていますけれど。

伊東:一晩中やりたい?

会場─笑

山崎:やってみたいと、、、あの、ずれないっていう前提があって、ずっとぽこぽこやり続ける、、、もっと狭い空間でだったら、やり続けてもいいかなと。

三輪:若者たちの秘密の儀式でね。祭りの夜、次の朝までやり続けるというのも、それは、物語として、僕も考えます。

会場─笑

山崎:ありがとうごいます。

伊東:十五夜ぐらい?

三輪:その場合は、おまんじゅうとは、もうちょっと違う。。。あの。未婚の若者たちの愛の交換の場とか。いろんなね。

伊東:あー。学校では、ちょっとできなくなるから、、、、(笑)ほかに

古河:質問というか、感想なんですが。結構すごく練習を、、、4回ぐらい。だんだんと、やっている気分が変わってきて。最初は、ただルールを理解しようと、体に入れようと思って、生真面目にやっていたんですが。1回おまんじゅうを練習やってみた時に、今と同じおまんじゅうを使ったんですけれど、全部食べていったら、本当に喉がつまりそうな状態にならはって。こっちがひるんだんですね。渡す順番がまわってきてしまったら、来てしまった。と思ったりとか、こっちに来なかったら、こっちに来なかった(安堵)と、やっている方の感情の起伏がすごくあったことが、ありまして。そういうことがあって、他の回では、ある程度ルールがマスターできたなと、ちょっと余裕ができたころに、それぞれの歩き方を変えてみようとかいうようなアレンジを考えてみたんですね。スキップしたり、横飛びしてみたり。すると途端にできなくなったんですね。ぐちゃぐちゃになったんです。自分を入れると、なかなか複雑になって、できないと感じました。それと、あともうひとつは、録音した音だけを聞くと、思いのほか、心地いい音が聞こえてきて。メロディという意味では、どのように考えてらっしゃるのかお聞きしたかったです。やっている時に、今日はならなかったんですけれど。おまんじゅうを食べさせる回の時に演奏していて、結構みんなで共通の、キタキタキタというバイブレーションみたいな盛り上がりを感じるところがあって、それはやっていて面白かったです。

三輪:感想ありがとうございました。それから色々試してもらえたようで、とても嬉しいです。作った方としては、最高ですけれども。コメントするとすれば、ぜひ忘れてもらっては困ることとして。これ、初めてご覧になられた方は気づかれたかどうかわかりませんけれど。例えば、おまんじゅう、トマトでもいいんですけれど。お皿の上に盛っていますよね。で、基本的には、ここに12個、ここに14個、ここに8個という風に、楽譜では数が指定してあります。なぜなら、間違えなかったら、必ず綺麗に全部がその数でなくなるというのが、あらかじめわかっているからです。あらかじめわかっているのは、既に僕が、同じアルゴリズムでコンピューターシミュレーションを作っているからです。ということは、コンピューターシミュレーションがあるということは、あのパイプの音をサンプリングして、コンピューターにいれれば、完璧な、音響としては完璧なものが聞こえるはずです。現に僕は聞いています。で、なのに何故、人間がやるのかというのが、多分、今のコメントの大事なところで。つまり、あ、キタキタという感情とか、それから、またおまんじゅう押しこまなきゃならないと思って、ひるんだりとか。人間は感じないわけにはいかないわけですね。そういう諸々のことは。本来だったら、演奏としてやるべきことが決まっているんだとしたら、そういうことは、余計なことの筈なんですね。でも人間はそんな風には、機械のようには出来ないというところが、僕にとっては人間でやる理由だし、人間じゃなきゃ、やる意味を感じないんですね。

伊東:こないだニュースかなんかで、何十年かしたら、人間の仕事の85%が、機械に置き換え可能になるというニュースがあったと思うんですが。逆にいうと、現代の人間の仕事の85%は機械化しているというか。マニュアル化しているということだなと思って聞いていたんです。僕、身の回りの人には最近よく言っているんですが、コンビニのレジでね。なんパッ言われた時に、意味がよくわからないことがあるんですよ、最近。耳が遠なったんかなと思ってたんですが。要するに、マニュアル化された声で話しかけられると、どうやら僕は意味がわかんないらしいと、最近気づいたんですけれど。今のその話とどっか重なるような気がするんですけれど。

三輪:多分、おっしゃる通りだと思います。もう、人間が機械のように、なっていって。多分、そういう意味で、人間が今まで考えられていたような、ものでは多分なくなっていくんだろうという風に、僕は思っています。それが、いいことなのか悪いことなのかというのは、、、、判定しても仕方がない。事実を変えようがないという意味で。

伊東:三輪さんの声の方のパフォーマンスもそうだと思うんですが。人間と機械の間みたいなことですよね。わりと。機械に声を喋らせるという。

三輪:あの。フォルマント兄弟の、初期のヒット曲が、「ピザ注文https://www.youtube.com/watch?v=FFvFlpVjEjM」というのがありまして。キーボードで、人工音声でピザを注文するんですね。で、あの。見事大成功した、最初の記録が残っているんですけれども。

伊東:「マヨ・ジャガ」とか言わせるんですよね。

三輪:そうです。で。なぜピザの注文かというと、あらかじめ1回注文しておいて、何を聞かれるかを確認してあるわけです。ここで、何を答えるべきか、次に何を言うべきかというのは、わかっているので、キーボードで声を作るので、キーボードで練習しておくことができるんですね。逆にいえば、練習しなきゃ即興でそんな話し言葉を抑揚つけて話せるはずがないんです。あまりにも、難しすぎて。で、練習していて、頑張っても、とても人間がしゃべっているとは思えないような声になる。でも、一応、何を言っているかわからないわけでもない。電話の向こうのピザ屋さんは。というところで、、、、いたずら電話と思って切られるのかと思ったら、決してそういうことではないんです。普通〜に、何事もないかのように、ピザ屋さんは次の質問をちゃんとしてくれるんですね。そのギャップが

伊東:ということは、ピザ屋さんの方も機械化しているんですね。

三輪:そうですね。ピザ屋さんの方が機械みたいだったという

伊東:なるほど

三輪:そういう経験があります。

D:失敗とかミスについてお聞きしたいんですが。あの、僕もリハーサルの時、練習の時ちょっとだけ行きましたけれど。やっぱり失敗しちゃうんですけれど。そのことについてで、例えば、ミニマルミュージックとかだと、うまくいっている人と、失敗した人とのズレがその音楽の醍醐味になりますというような作品とかもあって。一方で、ライヒみたいな演奏家を拘束するタイプのものもあって、三輪さんは、特に今回の作品では、失敗については、絶対に許しません、とか。失敗しないように準備はして欲しいけれど、してしまったらそれはそれ。とか、どういう風に捉えられているのか?

三輪:いい質問だと思うんですが。えと。答えは、はっきりしています。失敗してはいけません。

会場─笑

伊東:失敗しちゃいました

三輪:しちゃいましたけれど、失敗してはいけません。ショパンのピアノ曲を音外していいという人はいませんね。それと同じ意味において、失敗しては、いけません。ただ、失敗できるのは、人間だけなんですよね(笑)まぁ、という意味で、ライヒだったかな、拘束といいましたけれど。僕は、徹底的に拘束するタイプです。

E:今日は、2号館で、このチラシをみて、ほんとは、上に、別の研究会があるんですけれど。そちらをブッチして、こちらに(笑)えーと、文学研究家の哲学専門の家高ともうします。

三輪:Eさん?

E:あの、元マルガサリで。「愛の讃歌」を

三輪:その節は

E:あの、今失敗のことを言われていたのに、それに近いんですけれど。私は、全然知らなかったので。タイトルも全然知らないで。「三輪眞弘」の言葉だけで来てしまったので、いじめということも、始めわからなかった。けれど、途中からいじめだろう、と。トマトあたりでわかったんですけれど。アルゴリズムに従ってやられているというのも知っていたので、わかったんですが。失敗というよりは、やはり個々の奏者の偶然の色んなことを見るというのも、この作品の面白さかなという風に思って。それは単純に失敗か失敗じゃないかということではなくて。そういうところが、機械でもなくて、人間の揺れみたいなところが面白かったかなと。

三輪:話の続きとして、とっても大事だと思うんですけれど。つまり、逆にいえば、拘束すればするほど、個人が際立つというところがあって、完全に同じことをやらせるんだけれど、それでもずれてします。その人しかない個性みたいなものが出るのは、むしろ好きにやっていいよというのとは、全然違うクオリティを持っていて、僕はそれを愛しています。はい。ありがとうございます。

E:それが、あの今日の演奏されたものに、それが感じられたので、えぇ。いじめだったんですけれど、個人的には楽しめました。

会場ー
三輪:ありがとうございます。

伊東:ほかにはどうですか?

F:あの、座ったままで失礼します。以前も三輪先生のコンサートをきかせていただいて、物語の選択に興味がありまして。今回、「おまんじゅう」と割烹着を着た「給食のおばちゃん」、フリーメイソンみたいな格好をしている、で、なぜか足袋を履いている。それを選ばれた背景というのは?

三輪:基本的には、「給食のおまんじゅう」で。原点は僕にとっては、学校給食の情景というのが、ひとまずあったんですね。なので、給食のタイトル通り、割烹着、着るよね。当番だからといって、なんか、おかずすくったりするような当番がいて、原風景のようなものがあるんだけれど。で、それは伝えてはあるんですけれど、そこから先は、解釈の領域なので、好きに、自由に解釈して欲しいという風に伝えてあります。なので、フリーメイソンなのかはわかんないけれど、どう考えても給食の時に着るものとは思えないものが、あって、「おぉ」と、僕も驚いたし。あとは、「おまんじゅうじゃなくて、トマトにしました」と言われて、なるほど、というような、アレンジってものがあって、それはそれで、僕にとっては、間違いじゃなくて、解釈の領域、と。だから、別の物語を考えるということであれば、ぜひ考えて欲しい。つまり、そう。マトリックスの方が指定するんです。間違えちゃいけない。でも、その物語の部分は、僕よりもっと素敵な物語をもっているにちがいないと思いますから、僕が指定したとおりのものじゃないといけないという風には思っていないわけです。

F:ありがとうございます。

三輪:お子さんがいて、見せていいもんかどうか気を揉んだんですが。明らかに、大人向けの作品だと思いますので

伊東:こちらが割烹着で、こっち側は、あの

三輪:何をイメージしたんです?

伊東:KKK団です。えと。まぁ、同じことがこっちでも起こっているはずなので、まったく同じことをやるのもどうかと思って、何か違うことをしましょうかと言って、いろんなことを考えたんです。おまんじゅうがいいのかどうか。おまんじゅうじゃなかったら、何がいいのか考えて、最終的に、トマト、ミニトマトに。それから、服装も割烹着じゃなかったら、どうなのか考えて、まぁ、とりあえず、落ち着いたところが、一人あれを作ってくださる方がいたので。結果的には、僕は、こっちが現実で、こっちが内面というか。実は、ああいう恐ろしい人達が食べさせているんだという解釈もありうるかなと。でも、それは後付けですけれど(笑)

三輪:そういうチャレンジがあるのが嬉しい(笑)

G:伊東先生のところの学生です。伊東先生、あっちは、顔、顔ってある意味個性の象徴だと思うんですが、あれは隠そうとされたんですか?衣装の意図ですが。

三輪:そうですよね。

伊東:すごい安心しますよ。

会場─笑

伊東: 、、、、もう何やってもいい。

G:それでかえって、歩き方の差異とかさっきおっしゃったような。顔を隠すことで、他の身振りとか見方とかその辺が還って際立っていたように思いました。普段意識しない伊東先生の歩き方の癖とかも、今日みてわかりました。そのあたり面白いと思いました。感想ですけれども。ありがとうございました。

伊東:なんでおまんじゅうなのか?とか。そうか、戻りますか?

A:これは、小学生やったら、むっちゃ怖いことが起こるんちゃうかなと危惧しているんですが。対象年齢とか。ほんとに、小学校や幼稚園でやらせるべきだと思うんですが、ちゃんと、後々コントロールしないと、危ないこととか起こるんじゃないかと危惧しています。

三輪:あのー。

A:あと、まだふたつあるんですが

三輪:一個ずつにしましょう。それについてはね。すぐ思い出すことがあって。3.11の後に、嘘か本当かわからないんだけれど、子供達が津波ごっこみたいな遊びを考えたという話を聞いたことがあるんですね。大人だったら、悪い冗談だ、とんでもないと思うんだけれど。子供にすると、あれほど恐ろしいから、それを遊びにしちゃう。で、遊びにしちゃうというのは、僕が考えている奉納に近いような人間の心の精神なんだろうと。僕なんかは思うので。ケアが難しい、ケアが難しいと言ったが。むしろ、いじめという現実みたいなものを、あえて意識的にやるということは、考えられないことじゃないような気がしています。

伊東:そういえば、ガムランの曲でインドネシアの地震の時の様子をそのまま舞台にしたようなガムランの歌ありましたよね?ちがいましたっけ?

E:津波の後に、インドネシア人の方が、我々日本人と一緒に歌をつくって。グンバという地震の曲をつくりました。

伊東:フェニックスホールでね。あれなんかは、まさしくね。子供達がやった遊びみたいな、そういうとこがありましたよね。

A:あの。物語とルールというこの音楽をやり始めてから、ずっと考えだして。12月の頭に
短歌ワークショップに参加したんですよ。大阪大学のリベラルアーツとしての短歌。

三輪:ん?日本語のポエムの短歌?

A:五・七・五・七・七の短歌です

三輪:はいはい。

A:穂村弘とかそれをやって、ブゥワーとみたら、自分やったら、良寛とか道元とか、自分のルーツになるようなもの、五・七・五・七・七とか、キャッチコピーとかも、自分のルーツになるようなものに案外縛りとかあるって気づいて、その枠にあてはめようとおもったら、言葉のセンスとかガッてないとダメだなと。ちょっとつながったことがありました。ちょっとつながったことがありました。
 あとひとつなんですけれど。僕、こんなんなので、むちゃくちゃいじめられました。ほんとに殺されかけたこととかもあったりとか。出て行けとか、はい出て行きますとか。そういうむちゃくちゃ社会でいじめられたことが何回もあるので。だから、もう一回いじめられようと、自分から真ん中やってたんですけれど。そしたらなんか、、、、いじめを克服するプログラムとしてもこれいいんじゃないかなと。いじめられている人が、この音楽は10分でいじめが終わって、最後、みんな仲良くなるんですよ。それってすごい、、、救いになる音楽なんじゃないかなと

三輪:や、だからね。そこはね。僕も同意するんだけれど。そこがポイントでね。例えば、小学校でやってみましょうとなったら、たぶん教育委員会は黙っていないですよ。ふざけるなと言うでしょうよね。でも、大人も子供も心って基本的には、そういうもんじゃないわけだから。まさに、それを反復し、自分に受け入れられるものにしていくプロセスみたいなことが、この作品というのではなく、芸術とかそういうものとか、基本的にそういうものですから、今言ったことは、当然そうだろうと僕は思います。

A:この音楽を始めて、2ヶ月、この短期間で、むちゃくちゃ成長できたって自分で思う

会場─笑

A:なので、是非みなさんもこれ、やってみてください。僕は、これ以上しゃべらないです。ありがとうございました。

伊東:先生的な、視点からいうと。一応これをやる責任者みたいな立場なので、最初から気にしていたのは。誰が、食べさせられる役をやるかなということは、すごく気にしました。その人が、なんというかな。この役に耐えられるかどうかっていうのもすごい大きいですしね。もし、小学校でやるとしたら、その辺、すごく気を使うだろうなと感じました。

A:はい!これだけ!逆に、学校の先生とか。いじめていい対象は、先生とか。会社の社長とか

伊東:それはね。わかるけれど。面白ないと思うよ。なんというか、当たり前すぎて。単なる無礼講みたいになっちゃったら、おもしろないなあと思ってたので。結構微妙やと思うよ

A:あ、じゃあ、、、忘れてください

伊東:はい、どうぞ。

H:僕、伊東先生のところの学生なんですけれど。僕が普段聞くのは、ポピュラー音楽とか、普通に売っているような音楽。音楽を聴衆する場ってライブなんですよ。そういうのに慣れている者にとって、今日のこういうのって免疫が少なくて、最初突き放されたような感じになるんですけれど。こういう音楽の場合、作る人は何を考えているのかな?と

会場─笑

H:聞き手のことをどういう風に想定しているのかっていうのが気になりました。僕自身、曲を作ったりそういうことをするんですが、聞き手のことをすごく意識しますし、こういう方が気持ちいいだろうなとか、ノリやすいだろうなとか考えるんですけれど、やっぱ、全然違う論理で、曲とか作品を作ってらっしゃるんだと思うので、そのあたり、どのように考えてられるのか気になりました。

三輪:これはたぶん、最初の話に戻るわけで。うーん。僕が考えている、娯楽としての音楽の場合には、人間対人間なんですね。つまり、ある意味では、音楽だけじゃないけれど、お客さんを喜ばせてなんぼという関係だと僕は思うんですね。逆にいえばお客さんが喜ばなかったら、なんの意味もない。価値がないと言われるようなものなんだろうと思うんだけれども。僕が考えてた奉納という理念では、奉納は、人が立ち会うものなんですね。で、受け取るというのではないんですね。むしろ演奏している人たちは、自分の代わりというか、代表という立場で、あくまでも見ているほうは、この世のものではない何かってことになると思うので、そういう意味で、突き放されたというのはあまり嬉しくなかったのかもしれないけれど、立ち会って欲しいというのが、基本的な僕のスタンス。その場にいる。それからもちろん、もうひとつのポイントは、同じ空間同じ時間を共にするということが、大前提であるので。僕だって、CDを出していますけれど、自分が作る作品というのは、基本的にCDで聴けるものではない。立ち会ってくれて、ありがとうございます、という返事です。

H:立ち会えて、嬉しく思いました。こちらこそ、ありがとうございました。

D:僕は聞いていて、そういう意図がおありだったかどうかわかりませんが、オーケストラのパロディみたいな気がしないわけでもなくて。オーケストラって演奏中は、案外、今日の出演者の方のような感覚で演奏されているような部分もあると思うんです。ロマンチックな気分に浸って、弾いているわけではなくて、いろいろ取り決めとかいろんなことがあって、それを忠実に弾いている。で、オーケストラの曲によりますけれど、もうちょっとうっとりできるメロディーがあるので、お客さんは納得して帰るんですけれど。今日は、それがなかったんで、オーケストラの人たちが普段やっていることが、露骨に見えてしまって、あの、びっくりする人もいたのかなという風に思いました。ただ違いは、指揮者は、いなかったわけなんですが。指揮者があなたこっちに動いて、あなたこっちに行ってとか、いうことも、システム次第ではできるのかなと思うんですが、そういう風にされなかった理由ってありますか?

三輪:どうなんだろうなあ・・・えと、いい質問だと思うんですが。まず、第一は、オーケストラとの比較において。基本的に僕は、何が音楽かといったところでは、まぁ、原理主義というか、これだけあれば兎に角音楽が成立するんだ、これがなきゃアウトなんだというものがあって、その原点みたいなものを確認したいっていうのがあるので、結構、骨と皮だけの作品になる傾向はあるんだと思います。それから、もうひとつは、美しいメロディの話ですけれど。確かに、美しいメロディとハーモニーというのが、人類がみつけたものすごい大発見だと思いますし、作曲家になりたいと思ったのは、そもそもそういうものに魅了されたからですよね。自分が作るものとしては、感情というものを、、、、一番僕にとってありえないのは、自分の感情を音楽に託す、そしてそれを伝達するということは、基本的には全く考えていない。それは僕が考える音楽じゃないからなんですが。そのうえで、見てみたいのは、むしろ感情というものが、人の心に生まれる瞬間みたいなものに憧れているんですね。そういう意味で、僕が知っている感情みたいなものを伝えることをまったく考えないというのは、逆にいえば、今日の骨と皮のようなパフォーマンスを見ていて、なにか感情が、それは人それぞれかなり違うものかもしれないけれど、動かされる、という、、、、ところまでできないと、もちろん僕にとっても音楽じゃないことになる。と、まぁ、微妙なお返事なんですけれど。はい。

D:ありがとうございました。

上野:今回のお話で、ライブでないと音楽じゃないというお考えなんですけれども。私たち、撮影とか記録をさせていただきたいとことで、拒否されるかと思ったんですけれど、快諾いただきありがとうございました。私たちは、声フェス全体を通して記録していこうという授業をやっていまして、その記録とかアーカイブは、三輪さんどのように考えているかお聞きしたいんですが。

三輪:これは、参加者の皆さんにはちょっと言ったかもしれないですけれども。まずは、記録、アーカイブというものについて、僕は特別、よくないとか好きじゃないとか、そういうことは一切ありません。なぜならそれは、それは記録であり、アーカイブであるから。逆にいえば、記録を、音楽でいうとCDを考えていただければいいんですが、CDを聞いて、音楽を聴いたと僕は思わないというのが、僕の立場で。つまりCD。なのでわざわざ僕は言葉を作って、録音された音楽、録楽という名前をつけたんですけれど、ベートーベンのCDがあって、それを家でかけます。僕も聞きますもちろん。それは、僕が考えている音楽の体験とは、根本は違うものだというのは、忘れるべきじゃないんだろうと思います。逆にいえば、音楽、CDで音楽を聞くということも、音楽を聞くと普通に言うことが、よく考えてみると不思議なことなんですね。あの、だって、演奏家が目の前にいるわけでもないし、空間を共有しているわけでもないですから。それをしていないと僕は音楽じゃないと思っているという意味で、スピーカーからでている録音物というのは、記録物としては、もちろん認めるというか。一緒になって、録楽を聞きますけれども。分けて考えるというのが、僕にとっては一番大きなポイントです。

石塚:さっきの、アーカイブの話を聞いて思ったんですが、今回のやつって、上演会となっていて、演奏会ではなく上演会となっていて、その三輪さんにとっての音楽というのは、幅広いのかと思いました。練習の時も、おまんじゅうを口に入れるのを、ハイ、ハイってやらずに、演出みたいな感じで、無理矢理入れてくださ伊東おっしゃったのは、音楽のその、音楽を奉納させてくださいという感じで、三輪さんとしては捉えておられるのか、音楽って音だけのことじゃなくて、動きや表情も含めて、音楽として捉えていらっしゃるんでしょうか?

三輪:さっきの質問に近いと思うんですけれども。システムの部分と物語の部分があって、一応僕は、わけて考えるけれども、物語は、飾りのようなものだというわけではないんですよね。基本的に、タイトルがついている以上「給食のおまんじゅう」というところで考えた時の、基本的な考え方は、イメージとしてはいじめというのが僕にはあるので、その線に沿うんだったら、口におまんじゅうを入れる時に、優しく入れるのではなく、強引に入れるというのが正しい解釈だろう。物語に従えば、ということになるので。僕は、そういう解釈を、おまんじゅうに関してはしたわけですよね。で、さっき言ったように、全然違う物語を考えたいっていうんだったら、それはそれでいいと。あるべきだと思うんだけれど、物語の必要性じゃないけれど、当然の帰結として、ある物語があったら、その物語に相応しい動きなり、演出なりが必ずあるべきだし、あるだろうと思うんですね。なんなんだろう、、、、、、、、、その物語によって、パイプの鳴らし方みたいなものがあって、おのずと決まっていくわけです。どこまでの精度を求めるかは、いろいろだと思うんだけれど。つまり、パイプをただ鳴らせとしか、楽譜には、指示書には書いてないわけなんだけれど、パイプの音が遠くまで響くようにとイメージしながらパイプを叩くのと、実際にそういうことを考えないで、叩くのと、むしろ息苦しく鳴らすべきだと思うかで、叩き方は変わるわけですよね。その時に、どの叩き方が正しいとは言わないけれど、正解かというと、物語が決めていることで。その意味でも物語というのは、ポイントになる、大事なところだと。システムからはそういう要請はないわけですから。はい。

伊東:最後に

平良:最後ですか?

伊東:いや別に締めくくれというわけではないよ

平良:パイプの話が出たので、質問、、、感想になるのかな。練習していて、パイプをずっと鳴らしていなくちゃいけなくて、むちゃくちゃ痛いんですよ。あざになったりとか(笑)いろんなところを試して、携帯いれてみたりしたんですが。いじめのコンセプトがあったので。。。。おまんじゅうを突っ込む側は、いじめている側だけど、その人たちも、痛くて(笑)これは、もしかしたら、三輪さんの意図なのかなと思って

三輪:そこまでは、考えてはいなかったけれど。。。

会場─笑

三輪:いい指摘ですよね。痛いほうがいいと思いました。痛くなったほうが。

山崎:あの最後といわれたんですが。

伊東:どうぞ

男性:真ん中にいじめられる人が、すべてのリズムを支配するんですよ。それが、すごい変な感じがしていて。そこまで意図されたのか。それもちょっとお聞かせください

三輪:それは意図ではないけれど、意識はされています。むしろ、なんといえばいいのかな。いじめられる子が、全体の空気を支配することになるというのは、悪くないと僕は思っていました。という意味で、意識はしているけれど、そこまでつっこんでは考えていないかもしれない。僕は、悪くはないと思っています。というのは、、、、さっきのマトリックスの話なんだけれど、今回はいじめられっ子なんだけれども、そうとは限らない。他の物語ではそうとは限らないわけです。むしろ、支配者になるかもしれないし、現に合唱曲では、指揮者が真ん中に立つ人で、ビートを決めているんですね。そういう風にいろんな形があるんだけれど、意識として成り立つというところで、かなりミニマムな原型になっているんだろうと、勝手に思っています。

伊東:大体予定した時間になったので。これがオーケストラだとすると、このおまんじゅうを上演するヴィルトゥオーゾ集団が出てくることだって、あるわけですよね。

三輪:僕がさっき言ったような、間違っちゃいけないとか言ってるのは、そういうことを望んでるんですね。むしろ誰でも楽しく参加できますよというものを作るつもりはない。

伊東:だからここにあざがある人は、、、「あの人は名人だ」、とかね。

三輪:硬くなっているとかね。

伊東:ピアニストとか、ヴァイオリニストはそういうことをやっていますからね。そういう意味では、不思議な世界ですけれども。なんのまとまりもありませんが、このへんまでに、、、、。