【講義録】“アーキビストなしのアーカイブ”の作り方:松本篤
②レクチャー:アクションとしてのアーカイヴ(1)
“アーキビストなしのアーカイブ”の作り方
講師:松本篤
コーディネート、司会:久保田テツ
※以下の文章は、2015年7月19日に大阪大学文学研究科で行われた、《声フェス》事業⑧「ドキュメンテーション/アーカイヴ」vol.2の導入レクチャーの文字おこしをもとに、講師によって加筆修正されたものです。
1.はじめに 「情報」はいつ、どこでうまれるのか
建築(アーキテクチャ)とアーカイブはよく似ていると言われます。例えば、設計図やプランをつくり、それをもとに実際につくり、さいごにそれを使うという点。あるいは、人を収めるハコ、モノを収めるハコをつくるという点。最近では、情報アーキテクチャとして、アーカイブを捉える見方もでてきています。両者はたしかに非常に多くの共通点・類似点をもっています。
『建築家なしの建築』(B・ルドフスキー、鹿島出版会、)という本があります。「系図なしの建築についての小さな手引書」という副題がついた本書では、世界各地の無名の工匠たちによる風土に根ざした土着建築が、沢山の図や写真とともに紹介されています。本書からは、「建築」や「建築家(アーキテクト)」という概念、住まうことのあり方といった概念の多様性を垣間見ることができます。
“アーキビストなしのアーカイブ”が、世界的な広がりをみせています。皆さんは、アーキビストという言葉をご存知でしょうか。アーカイブを構築・運営したり、アーカイブされた資料を取り扱うための知識やノウハウを有した専門家のことです。しかし近年、インターネットやsnsといったテクノロジーの革新と普及に下支えされるかたちで、いわゆるアーキビスト以外の人たちがさまざまな動機でアーカイブづくりに取り組む事例が世界各地から報告されています。
僕は、盛り上がりをみせつつある昨今の、いわゆるプロではないアーカイブづくりを、批判的メディア実践の1つとして捉え、注視しています。なぜなら、さまざまな活動の目的や、知識や情報の生産のされ方がそこにはあるし、それを受容するかたちもそれぞれに違っていて、そんな知のあり方が担保されることを非常に重要だと考えているからです。いかに情報を受け取るか、だけではなく、いかに情報や知識を生出するか、生活者が情報の生産と受容のプロセスに関与する状況が、非常に興味深いのです。そこでは、つくりながら考える、考えながらつくるといった試行錯誤が繰り返されながら、いわば、建て増しに建て増しを重ねる“違法建築”のような営みがくりひろげられています。それは、アーカイブそのものを疑っているような態度としても受け止められます。設計図がない状態でも、アーカイブをつくりたい!という強い動機がうまれてからつくられるアーカイブ。そんな野生のアーカイブの作り方があってもよいと思うのです。
今日、皆さんと共有したい問いが2つあります。「情報─information」は、いつ生まれるのか、また、どこで生まれるのか。この2つの問いは、アーカイブの作り方や使い方を考える際、とても重要な問題です。そのことについて、2つの事例を挙げながら、考えていきたいと思います。1つ目は、AHA!(アハ!)というアーカイブ・プロジェクト。2つ目は、フネタネスコープという記録実践のプロジェクトです。
2.見えないものをみる
これから紹介する2つのプロジェクトは、NPO法人記録と表現とメディアのための組織(remo)の事業の一環です。1つ目の事例は、8ミリフィルムのデジタル・アーカイブ・プロジェクト、AHA!(アハ!)についてです。2007年に放送されたニュース番組をご覧ください。
───ニュース映像
映像でだいたいのイメージはつかんでもらったと思いますが、プロジェクトの概要をあらためて説明します。AHA!という取り組みは、市井の人々によって残された記録や、それにまつわる記憶の価値を探究するアーカイブ・プロジェクトです。remoは2002年の発足から、映像を囲む場づくりを行ってきました。AHA!はその一環として、2005年から始まりました。発足当時から現在にかけてアーカイブの対象にしているのは、昭和30〜50年代にかけて一般家庭にはじめて普及した映像メディア「8ミリフィルム」。皆さんはスマ―トフォンなどで動画を撮ったりすることがあると思いますが、8ミリフィルムはその先駆けです。歴史的にみれば、8ミリフィルムよりも以前に、9.5ミリフィルムや16ミリフィルムといった映像メディアもあったのですが、ある一定の広がりをもって普及したのは8ミリフィルムが一番最初と言ってもよいと思います。
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プロジェクトは、収集・公開・保存・活用といったフェーズを整えていくことがその仕事の大半です。まずは、フィルムの収集。回覧板や新聞を通じてフィルム提供を呼びかけ、関係者のみの上映会(出張上映会)を提供者宅で行います。フィルムはだいたい押し入れに眠っています。再生するための映写機が故障したり、ランプが切れてしまって、フィルムを観ることができなくなってしまっているからです。そこで我々は映写機を持って各家庭を訪問して、上映会を行います。伺う際は、聞き取り役、書き取り役、映写技師の3役がスタッフとして立ち会います。そこでフィルムを再生させながら、いつ、何が記録されたのか、また、映像の視聴をとおしてうまれた提供者の語りをできるだけ専用のカルテに残していくのです。
その次に、提供者の承諾を得て選別・デジタル化を行い、公開をします。公開のフェーズでは、我々スタッフはファシリテーターという役割を担います。ファシリテーターというのは、3つくらいの役割に分業されていて、司会進行、会場の声を拾うレポーター(インタビューア)、最後にデジタル映像を再生、一旦停止、巻き戻しなどのコンピュータ操作を担うオペレーターが、会場に配置されています。ファシリテーターのそれぞれの働きが、来場者の想起や想像のきっかけをつくるのです。
保存のフェーズでは、図書館や教育機関などとともに、デジタル化した映像のパッケージ化(DVDやブックレット)、あるいは、映像の保管・貸し出しなどの仕組みを整えます。また、活用のフェーズでは、貸し出された映像資料をさまざまな用途で活用してもらえるような提案やパイロットモデルづくりを行います。たとえば、小学校や福祉施設の中でどのように利活用してもらえるかを考えたり、それに応じたツールをつくったり、仕組みづくりの提案を行ったりします。さらには、アーティストが制作する作品に提供するケースもあります。
8ミリフィルムの多くは、「ホームムービー」と呼ばれる、家族の様子や子どもの成長の記録の類いのものです。そのほとんどは、音声なしの状態で記録されています。また、今のハイビジョンのようなクリアな画質ではありません。今の映像のあり方と比べると、“ないない”尽くしかもしれません。しかし、先ほどのニュース映像で、8ミリフィルム鑑賞会に参加したおばあちゃんが、誰かが撮った七五三や千歳飴が入っている袋を見て「うちの子供もあんなことやった」と述べておられました。自分が記録した映像ではないけれど、誰かの記録を手がかりに自分の経験を語ってしまうということが起こっていました。音もなく、輪郭もぼやけた映像が、観る者の想起や想像を刺激・促進させたのは、それが他者とともにスクリーンを囲むという状況だったからではないでしょうか。このような状況が、アーカイブのもう1つのかたちを示唆しているように思えます。
いつ、どこで情報は生まれるのか。この問いを掘り下げるために、2013年のAHA!の取り組みを紹介します。岐阜県大垣市に所在するIAMASという大学院大学が主催する展覧会「岐阜おおがきビエンナーレ2013」に参加した時のことです。まずは、いつものようにフィルムを収集するところからはじめたのですが、そのプロセスの中で、チラシ配布の協力者や地元の商店街の方、フィルム提供者の方々から口々に「“カメの池”って知っています?」っていう質問を投げかけられたんです。大垣の歴史についてそれほど知識のない僕に対して、地元の方が質問するというのも不思議な感じなんですが・・・。

いろいろと話を聞いてみると、かつて大垣駅の前に自噴水があったようなんです。そこにカメがたくさん泳いでいた。その甲羅には、白いペンキで何かが描かれてあった。そんな話を結構色んな人から聞いたんですよ。ただ、「カメの甲羅には何が描かれてあったんですか?」と聞くと、「店の屋号が描かれてあった」とか「数字が描かれてあった」とか「人の名前が描かれてあった」とか、人によってバラバラだった。また、「なぜ、池にカメがいたんですか?」と聞くと、「近くの川からやってきたんだ」とか「縁日の時の売れ残りを店の人が捨てたんだ」とか「飼っているカメが飼えなくなって、飼い主が捨てにきたんだ」とか、これも人によってバラバラだった。まるで都市伝説でした。
ただ、その話を聞いてからは、今の駅前の風景とは全然違うそれが広がっていたんだなということがわかって、非常に気になりはじめたんです。それからは、カメの池が映っているフィルムが発掘されることを、なんとなく期待しながら収集作業を継続していました。そして幸いなことに、収集作業の終盤で、カメの池が映っているフィルムが出てきたんです。しかも、とても身近なところから。出張上映会や打ち合わせの会場としてIAMASから提供してもらっていた商店街の空きテナントのスペースが、もともと写真屋さんだったんです。その方に連絡をとってみると、今は市内の別のところで写真屋を営業されていました。フィルムをデジタル化した映像を保管されていて、どうやらその一部にカメの池が映っているということだったんです。これでカメの甲羅には何と描かれていたのか、なぜ、カメがいたのか、がわかると思いました。
ところが、実際に映像を観せていただきながらお話を伺うと、撮影者は自分の父親で、自分が子どもの頃に撮ってもらった。その父はすでに他界していて、詳しいことはよくわからない。自分も小さかったので、あんまりよく憶えていない、ということでした。つまり、映像の持主でも詳細はよく分からないということでした・・・。ただ、不幸中の幸いとでも言うべきか、待望のカメの池の映像は出てきました。そこで、いろんな人に観てもらってお話を伺うことで、多面的にカメの池のリアリティを浮きぼりにできないか、点描でカメの池を描けるかもしれない、そんな思いを抱くようになってきたんです。最終的に、公開鑑賞会とは別に、映像を観てもらいながらインタビューを行い、その声と映像を組み合わせたインスタレーションを発表することになりました。「リビング・アーカイブ 7つの声」というプログラムです。

まずはインプットのセッティングを説明します。会場は、さきほどの元写真屋だった空きスペースです。ここにスクリーンがあって、映像が流れていて、お話を伺う方には、ここに座っていただいて。聞き手はここに座って。マイクはここで、録音などの技術的な協働者であるIAMASの前林先生にはここに座っていただき、ヘッドフォン越しに声を聞いてもらっていました。映像を流す尺としては、さきほどの写真屋さんからご提供いただいた、カメの池の映像を含めた数種類の映像を混ぜ込んだ10分ぐらいの映像を用意しました。それを2回再生し、2テイク撮ることにしました。インタビューにご協力いただいたのは、20代から80代までの男女およそ10名。カメの池のそばの商店街の方々と、カメの池を観たことのない、生まれ育ちが大垣の方々でした。
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アウトプットのセッティングですが、IAMASの構内の展示会場に、インタビューの際に用いた10分ほどの映像とそれを視聴しながらのインタビュー音声7つとを同期させて、映像と音声ともに同時に再生させます。最終的に展示に使わせていただいたのは、年代や男女差のバランス、機材の数などの都合で7名に絞り込みました。7つのスピーカーを用意し、1つのスピーカーから1人の声が流れるようになっています。真ん中に立つと7人全員の声が同時に聞こえます。ただ、音としては認識できますが、それぞれが相殺してしまい、語りとしてはうまく聞こえません。話を聞こうとすれば、来場者はそれぞれのスピーカーに近づくことが求められます。結果的に、来場者は会場を回遊することになります。どれだけの来場者が語りの内容に興味を持っていただいたかは不明ですが、それが展示を設計する上での狙いでした。実際に7つのスピーカーに囲まれて聞こえてくる音声とはまったく別物の体験ですが、映像に合わせて語られる7人全員の声のバージョンを聞いてください。

───7人全員バージョンの音声
1人ずつ聞いていくと、どのように聞こえるのでしょうか。
───1人バージョンの音声(年配女性)
例えば、この人は大垣市内を流れる水門川の近くで喫茶店をされている人なんですけれど、映像を観ていただくと、水に関係することを思い出されていました。大垣は戦前から繊維産業が盛んだったんですね。紡績工場というのは大量の水を必要とします。戦後の復興期にはたくさん工場があったので、一気に水量が少なくなって、かつ、水質が悪くなっちゃった。昔は喫茶店の営業をする時に、井戸の水を使っていたけれど、とてもじゃないけれど、それがなくなっちゃった、と。井戸を更に掘らないといけないが、そしたら100万ぐらいかかっちゃう。だから水道に切り替えたっていうような個人的なお話が思い出されました。また、駅前の広場では、いろんな人がそこで待ち合わせしていた。この方も実際に待ち合わせした場所で、伝言板にまつわるお話をされていました。
もう1人をご紹介します。
───1人バージョンの音声(年配男性)
繊維産業の担い手として戦後、全国各地から“女工さん”として大垣で就職された若い女性について、お話されています。街の繁栄を支える人材でありながら、“バタンコ”と呼ばれ、地元の方からはすこし距離を置かれて扱われていた記憶があるといったお話がでてきました。
聴いていただいたのはインタビュー音声のほんのわずかな部分ではありますが、2つのことが言えると思います。1つ目は、「小さな風景のなかに、大きな風景が保存されている」ということ。駅前のほんとに猫の額ほどの小さな池、あるいはそれを撮影した映像の視聴が、そこには映っていないものを想像させ、スクリーンの外部へと接続させる効果をもっていました。そのような個人の想起は、大垣という街の歴史をある側面から捉えていきます。さらにその語りは、戦後日本が辿ってきた大きな歴史とパラレルに存在していることもわかります。とくに「水」という言葉を軸に語りの内容を振り返ると、水運から陸運へ、鉄道や車が移動の主流になっていく過程が、複数の語りから見えてきました。きわめてパーソナルな出来事は、日本国内のあちこちでみえた、きわめてありふれた風景と重なってくるのです。
2つ目に言えることは、「小さな風景は、遠く離れた別の小さな風景に保存されている」ということ。ある場所やある土地の記憶は、その土地に生まれ育った人だけが保持しているわけではないし、場合によっては、その土地から遠く離れたところに保持されているということがありますね。戦中に南国パラオを開拓していた日本人が戦後になって引き揚げてきて、宮城県の蔵王に入植し、そこを「北原尾」(北のパラオという意味)と命名したというニュースがありましたが、全国から大垣に働きに来られた、その土地で生まれ育っていない多くの人たちが、大垣駅のカメの池の石に腰かけて憩いの場所として使っていたということが容易に想像できる。つまり、カメの池には、全国から集まった女工さんたちのそれぞれの生まれ育った場所の記憶が移植されているのかもしれない。また、大垣に生まれ育った人、あるいはそこに生活していた人が転居したりすることもあるわけですが、そのときカメの池の記憶は遠く離れた別の場所に移動したといえるかもしれない。すなわち、地域の記録とか記憶というものはすごく幻想で、よくよく考えると外から来た人や、外に出て行った人にその場所の記憶が支えられているということです。
「カメの池」の映像インタビューは、今後も機会があれば、引き続きやっていきたいなと思っています。というのも、インタビューに応じていただいた本人さえも忘れていたようなことが映像をとおして思い出されたりして。わき水のように滾々と出てくるようなイメージ。映像の視聴というアクションが介在するからこそ生起するリアリティがあったような気がします。しかも一人ひとり思い出す風景が違っていることが非常に面白くて。話を聞けば聞く程の1つの大きな話に収斂していかない。それはおそらく、無限に存在する差異のグラデーションを「地域」という便利な言葉で一括りにすることもせず、「地域」=排他的な共同体といったステレオタイプな批判にも終始しない、「地域」というものとの接し方なのかもしれません。
3.虫の目 鳥の目
情報は、いつ生まれるのか、また、どこで生まれるのか。その問いを考えるための2つめの事例、「フネタネスコープ」についてお話します。この事例には、厳密には「アーカイブ」という言葉はできてきませんが、2つの問いを考えるための手がかりになると思い、紹介させていただきます。
日比野克彦というアーティストが全国各地で展開している「種は船」というアートプロジェクトがあります。その1つとして、京都府舞鶴市において2010年から12年まで、「種は船 in 舞鶴」という市民参加型の取り組みが展開されていました。朝顔の種の形をした自走できる船を3年間かけて作るというものです。プロデュースを手がけたのは、torindoという一般社団法人です。
この「種は船」という取り組みのキーワードは「船で伝える、海の文化」。日比野さんや、日比野さんを招聘したtorindoの皆さんが考えていたのは、陸から海を眺めるのではなく、海から陸を眺めてみると、これまで見えていた景色と全然違うものが広がっているんじゃないかということ。
この「種は船in 舞鶴」というプロジェクトの調査と記録という任務を担ったのが、recip(正式名称:NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト)という大阪に所在するNPOでした。recipのメンバーから声を掛けていただき、remoも記録づくりの設計と実施を担当することになったわけです。そのタイミングがだいたい船が完成し、出港するまであと2ヶ月あるかないかくらいの時でした。
「種は船」に関する記録の設計と実施を組み立てていく際に念頭に置いたのが、これまでのアートプロジェクトにおける記録のあり方でした。90年代以降、アートプロジェクトという形態は、“参加”“参画”“関係”といった言葉をキーワードとして、全国各地で、美術館という従来の制度を飛び出して展開されてきた流れがありました。しかし、プロジェクトのカタログやドキュメントを見た時に感じるのは、結局、作家やキュレーターの言葉でしか語られないということ。そこに参加する側の見え方は隠されてしまっているということ。関係性や参加というロジックを前面に押し出すわりには、最終的な編集のあり方、アートプロジェクトの記録のあり方がほとんど実験されておらず、建設的な議論も交わされていない。結局、ここ20年の間に記録に関するノウハウはほとんど蓄積もされていなければ共有もされておらず、ハイライトだけを“つまむ”ためのカメラマンが用意されたり、事務局のヒューマンパワーで記録をつくっている。もちろん、カメラマンという1点の視点から全体を捉えるという行為自体は否定しませんし、むしろ必要だと思っています。重要なのは、それだけだとコンセプト崩れ、やろうとしていることとやったことがズレていると感じてしまうのです。コンセプトとその記録のあり方が乖離してしまっているのです。こういった現状を見据えつつ、プロジェクトの記録をどう設計し実施するのかを考える必要があると感じました。つまり、そこにコミットする人たちの声や見た風景をどう残すのかということをこの取り組みで扱おうと考えたのです。
そんなことをぼんやりイメージしながら「種は船」に関わる関係者と会うために、実際に舞鶴まではじめて足を運んだのが4月中旬くらいだったと思います。船が完成するまで約1ヶ月くらいのタイミングでした。舞鶴市の市役所の前を車で通りかかった時に、この写真が飛び込んできました。地図の北と南が反転しているんです。舞鶴という場所は海が近くて、韓国や中国にも近いんですよね。海上自衛隊もあって、舞鶴市民と深い縁がある。だから舞鶴に住む人は、地理的情報をこんなふうに眺めてるのかもしれないなって思いました。この反転した地図は、まさしく「種は船」というプロジェクトのミッションである、海から陸を眺めるということにつながると直感しました。さらに言うと、「種は船」に関する記録あり方についても、この反転とどこかでシンクロしていると感じました。反転することで見えてくることがあるというビジョン。これはすでに「種は船」の関係者と共有可能な言語だったと思います。

日比野さんや関係者の前で、この取り組みはアーティストやキュレーターの位置を相対化させる記録のあり方、それを考える絶好の機会だという趣旨のお話をしました。アートプロジェクトに参加する人は、キュレーターやアーティストが謳っているステートメントや背負っているミッションを、同じように謳ったり、背負う人ばかりじゃないと思うんです。例えば、「子どもがどうしても参加したいって言うから、ついてきたのがきっかけです」とか「人がたくさんいて、なんか楽しそうやから参加しました」とか「こまかい作業が好きなんです」とか。本当にささやかなことだったりする。そこにはさまざまな関係性や、参加するきっかけや、参加を続けるモチベーションがある。バラバラな人たちがバラバラにある。そこに声があると思います。だから、舞鶴での「種は船」の記録を行うにあたっては、これまでのアートプロジェクトのほとんどが取り組んでこなかった、参加者自身を軸とした記録を残すこと、声を拾うことをやってみてはどうだろうか、という提案をしました。実は、それぞれから見える風景のズレや違いがプロジェクトを活性化させる源であり財産なのではないか、と。アーティストやキュレーターから見えた風景だけを残すだけではなく、参加者から見えた風景の1つひとつも残してみよう。種と船をひっくり返そう、と。そんなメッセージを、監修者の日比野さん、キュレーターの森さんや豊平さん(torindo)、東京都文化発信プロジェクトの森さんや、プロジェクト参加者の皆さんに前向きに受け止めていただいた経緯があって、「種は船」に関わることになったきっかけ(種)や、船をつくるプロセスの中で印象に残っていることを参加者みずから記録に残していくプロジェクト、「船は種」が始まることになるのです。

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そこから急ピッチで、プログラムづくりがはじまりました。それは、いかに、プロジェクト中心の記録を脱却し、参加者中心の記録を模索するということでした。プロジェクトの現場に立ち会った参加者はプロジェクトのたんなる奉仕者ではないという、当たり前の事実から記録づくりを考えることをはじめました。さきほども少し言いましたが、このプレゼンは、船が完成する一ヶ月前の出来事でした。つまり、この参加型記録作りのプログラム「船は種」がはじまったのは、「種は船」が3年あるうちの、3年目の最後の1ヶ月ということです。正直言うと、そんな終わりかけの時に記録の仕組みづくりってはじめられるのかなっていう不安はありました。しかも、その船は新潟に向けて出航してしまうんです。記録に残そうとする船は、あと少しで舞鶴からいなくなってしまうんですね。そんなパラドキシカルな状況下で、考える手がかりになったのが、自分がかかわった記録を残しておきたいというモチベーションが参加者の中に生まれ来つつあったということです。
そこで、参加者それぞれの思い、思い出、思い入れといった「声」や「種」を、映像、写真、映像、文字などあらゆる媒体を用いて参加者みずからが記録づくりを行う「フネタネスコープ」および「つどい」というプログラムをはじめました。時間を経るごとに出航した船がどんどん舞鶴を離れていくのと同時に、プロジェクトの参加者は3年目から2年目、2年目から1年目と、時間を遡っていきながら、自分たちの思い出や声を記録として残していこうというものです。それは、プロジェクト全体の記録としても有益であるのはもちろんのこと、何よりも参加者自身の関わり合いの記録として残っていくことを願って始動したものでした。
具体的にはどんな内容、あるいはどんな手順があるのでしょうか。そもそも、フネタネスコープというのは、remoで取り組んでいる「レモスコープ」という、映像句会のような遊びをすこし変形させた動画記録のメソッドです。また、「つどい」とは、これまで船をつくるために定期的に集まってきたように、定期的に集まって船ができるまでの工程を振り返る場です。
フネタネスコープ、「つどい」には5つのアクションがあります。まずは、1分間/三脚をそえて定点撮影/撮影中ズームなしという3つのルールに従って動画を撮影します。それが<step1:撮る>です。フネタネスコープの元ネタであるレモスコープにはルールが6つありますが、フネタネスコープはより条件を絞って3つにしています。この条件を設けることで、撮影がはじめての人も得意な人も、子どもも大人もできるようになります。次に、定例の振り返り会「つどい」にそれぞれ撮ったものを持ち寄って、その中から1つを選び、みんなで鑑賞します。それが<step2:観る>です。そして撮影者は映像は消音にして、撮影の意図や映像の説明を自ら行います。それが<step3:話す>です。他の参加者はその映像を観ながら、説明を聞きます。説明が一段落したところで質問してもかまいませんし、その映像にまつわるエピソードを話してもかまいません。それが<step4:聞く>です。最後に、こちらが作成したフリカエリシートという用紙に、再生した自分の動画について撮影意図や動機をあらためて記します。また、自分以外が撮影した動画を1つ選んで、その映像を選んだ理由やその映像をきっかけに思い出したことなどを記します。それが<step5:書く>です。


最初の<撮る>と<書く>という行為は個々人の作業で、<観る・話す・聞く>というのは共同性が伴う作業になります。定期的に行われる「つどい」によって、映像とそれに関する文字情報が蓄積されていくことになります。
ここで、「つどい」に持ち込まれた映像をいくつか紹介します。
───フネタネスコープ 1つめ
これは、3年間かけて船をつくっていた広場をフネタネスコープ(1分間/三脚をそえて定点撮影/撮影中ズームなし)で撮ってきてくれたものです。これまでの説明のとおりですが、船は出航してしまったので、動画の中にはないんですね。でも、ここで、みんなで船を作っていたんです。ここで。3年目になると、船が完成して行っちゃうんだなぁということで、そこを撮りましたとのことでした。これを無音で流すと、みんなそれぞれしゃべりだすんですよね。そうすると、皆さん毎日参加しているわけではないので、自分がいなかったことのことが聞けたり、自分がいた日でも、作業している箇所によっては全然知らないことが起こっていたりするということが、実感できたりする。
───フネタネスコープ 2つめ
日本海を電車の中から撮影されている映像です。話を聞くと、さきほど映っていた広場や事務所のあるところまで電車で移動していて、その移動の様子を撮ろうとしたようです。その話を聞くまでは、海を撮ってるなーっていう感じだったんですが、その話を聞いた瞬間から、この人は、こういう景色をみながら3年間通ってたんだなっていう感じでついつい想いを勝手に馳せてしまって、映像の見方がガラッと変わっちゃたように記憶しています。
───フネタネスコープ 3つめ
思い出の場所というのは、必ずしも現場ではありません。この映像は、参加者のお家で、お母さんがおにぎりをつくっている様子を撮ったものです。現場に行く際、お母さんがおにぎり作ってくれてたことがすごく思い出に残っているから、それを撮ってきましたというようなことでした。撮影者の語りを聞いてはじめて、ああそういうことかと理解できる。もちろん、紹介した3つの映像のどこにも船は映っていないんですけれど、それぞれの見た風景を、あらためて記録してもらい、さらにそこにコメントをつけていくと、ついつい観てしまうし、いつもの見慣れた風景も全然違って見えてきます。
こういう撮影&鑑賞&談話を行い、最後にふりかえる時間を設けてそれを言葉として残す。そうすると、その映像自体はそれぞれのカメラで撮影していたりするので、参加者の手元に残ります(事務局にはコピーされて保存されます)。また、事務局側がドキュメントブックなどの成果物を作る時に、記録に残っている映像やその言葉、あるいは写真等を用いて制作するということもできるようになるかもしれません。このようなフネタネスコープや「つどい」の反復をとおして、記録をみずから残すという試みはしばらくつづきました。そして、総数2000本以上の映像が撮影され、当初予定にはなかったのですが、「種は船」のドキュメント展を行った際にその映像の一部が使用されることになりました。
ドキュメント展に遊びにきた参加者親子が、大きなスクリーンに映っている自分が撮影した映像を観ながら、二人で振り返って話をしている様子が印象的でした。参加者はプロジェクトのミッションや作品に惹かれて参加することもありますが。ただ、それだけではないのです。そこにある声を拾うこと。とてもささやかなものかもしれませんが重要な意義が、この「船は種」という記録のプログラムにあったと考えています。
なお、定例の振り返り会「つどい」の場では、参加者各自の携帯電話やスマートフォンに残されたプロジェクトの記録を集め、それを観てみたりしながら、振り返る<超高速スライドショー>なども行っていました。参加者が各自に撮影したプロジェクトの写真は、その人の携帯端末にあったりするわけですね。プロジェクトの事務局側になくて、分散する形で、関わった人たちが持っていたりするわけです。それを、なんとかして集めたい。ただ、ただ集めるだけでなくて、それをどうやったら楽しむことができるか。それと同時に、情報に転化することができるか。その両方を成立させる方法の1つとして、参加者の各自の手元に保存されている写真を集め、それを時系列に並べ、とても早い速度で再生と停止を行い、順番でその写真について話していくというサブプログラムを行っていました。
また、船ができるまでの3年間の工程を洗い出すのと同時に、誰がどこでどんな関わり合いをしていたのかを可視化するために、<寄せ書き風・年表づくり>というサブプログラムも行っていました。このようないくつかのワークショップメニューを複合的に組み合わせていくことによって、「つどい」が「想起の場」として機能することを助けてくれました。
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4.おわりに
この発表の冒頭に2つの問いを発しました。その問いを深めていくために、2013年の岐阜県大垣市での取り組みを含めたAHA!について、また、「船は種」というアートプロジェクトを記録する「船は種」というプログラムについて、これら2つの事例をご紹介させてもらいました。最後に、これまでの事例を踏まえて、その問いに対する自分の見解を述べて終わります。
情報は、いつ立ち上がるのか? どこで生まれるのか? それは、モノが動いている時、人が動いている時だと思うんです。動きのなかで人とモノが出会うことによって、情報を引き出すことができるようになるし、情報を付加することができるようになる。倉庫(ハコ)に収蔵したり、ピンで留めて、固定化させてしまうだけだと、動きを留めてしまうだけだと、情報は沈殿してしまいます。劣化してしまいます。閉じていくことと、開いていくことを同時に考える。つまり、アーカイブという名のもとに、モノや人が動いている状況をどう作っていくことができるのか。保管庫(ハコ)と野っ原をどうやって往還し続けられるのか。動的な仕掛けを含めたアーカイブづくり。以上が、これまで考え続けてきたことであり、これからも考え続けていきたいことです。ありがとうございました。
*このテキストは、2015年7月19日のレクチャーの文字起こしをもとに、講師によって加筆修正されたものです。