【講義録】芸術における協働について:吉澤弥生
※以下の文章は、2015年11月28日に大阪大学文学研究科で行われた、「芸術を介して生み出される空間の公共性」研究会における、吉澤弥生氏によるレクチャーの採録です。
吉澤 弥生(よしざわ・やよい)
共立女子大学文芸学部准教授、NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト[recip]理事、NPO法人アートNPOリンク理事。
大阪大学大学院、人間科学修士、博士(人間科学)。専門は社会学/カルチュラルスタディーズ/文化研究。労働、政策、運動、地域の視座から現代芸術を研究。近著に論文「労働者としての芸術家たち —アートプロジェクトの現場から」(『文化経済学』第12巻第2号、2015)、単著『芸術は社会を変えるか? —文化生産の社会学からの接近』青弓社2011年、調査報告書『続々・若い芸術家たちの労働』(2014)など。またrecipでは東京文化発信プロジェクト室との協働で『「船は種」に関する活動記録と検証報告』(2013)、『「莇平の事例研究」活動記録と検証報告』(2014)を、アートNPOリンクでは『アートNPOデータバンク2014-15 —アートNPOによるアーティスト・イン・レジデンス事業の実態調査』などを共同制作。フィールドは大阪を中心に全国各地。
今日は、始めに簡単な自己紹介をしまして、お題が「協動」ということなので、私自身が協動に関わった事例を3つ紹介します。最後に、問題と可能性を提起のような形で出したいと思っています。
まず自己紹介ですが、私の研究テーマは3つあります。1つ目は、文化政策そのものの基盤があまりにも弱すぎること、それと合わせて評価方法が確立されていないという問題です。2つ目は、アートプロジェクトの記録と調査の必要性。現在各地で行なわれている参加型アートプロジェクトは、作品として必ずしも形が残らないため、何らかの形でプロセスを記録しておかないと、関わった人の記憶の中にしか残らなくなってしまう。これでは他者に伝えることができないし、アーカイヴしていくこともできない。この、アートプロジェクトの記録調査については東京都の事業として実験を色々していますので、後ほど紹介します。そして3つ目ですが、アートという名のもとでの排除です。アートというものが美術館を飛び出して地域の色んな場所に行くということになると、コンフリクトがどうしても起きてきます。例えばジェントリフィケーションという現象があるのですが、社会問題を抱えた街を再活性化するためにアートを取り入れると、その結果土地のイメージも値段が上がり、もともと住んでいた低所得者層の人たちが住めなくなってしまうというような現象です。今、アートによるジェントリフィケーションは批判されることもありますが、でもその一方で、実際のプロセスはそんなに単純ではないかもしれない。そのような、空間における排除というのが1つです。もう1つは、芸術をめぐる労働の問題です。一般に、アートは良きものと思われているし、やりたい人がやっているんだから、貧乏でもいいじゃないかという風に言われがちです。実際私がアートプロジェクトや文化事業の現場にいて気になったのは、そこで働く人たちのほとんどが長時間労働・低賃金ということでした。もちろんおかしいと思っている人もいるんですが、特に若い人の中には「自分で選んだんだからしょうがない」「やりがいがあるからいい」ということを言う人もいたんです。でも、これは自己責任うんぬんではなく、社会問題だと考えたんですね。それで2010年、科研費を得てインタビュー調査を開始、『若い芸術家たちの労働』という報告書をこれまでに3冊つくりました。アーティストにも話を聞いていますが、基本的に現場を支える裏方、名前が出ない制作や事務局と呼ばれるマネージャーたちを中心に聞いています。

では本題に入り、文化事業における協働の事例を紹介します。まず「新世界アーツパーク事業」について。大阪市は1997年に地下鉄動物園前駅直結のフェスティバルゲートという都市型遊園地をつくったのですが、徐々に客が入らなくなり、店舗がどんどん撤退していました。そこで市は、その空き店舗スペースにアートNPOに入ってもらって、地域とつながりながら実験的芸術の拠点をつくるという事業を始めたんです。そして2002年、市の招きに応じるかたちで、もともと関西を拠点に活動していた人たちを中心に3つのNPOがつくられ、最終的にフェスゲでは4つのNPO(ダンスボックス、remo[記録と表現とメディアのための組織]、 ビヨンドイノセンス、こえとことばとこころの部屋)と2つの任意団体が活動しました。ただ、この新世界アーツパーク事業、本当は10年やるということで始めたんですが、5年で中断するんですね。もっと言うと、3年経ったところで「お金がなくなったからやめたい」と市が言い出した。なかでもダンスボックスは、借金をして設備投資を行っていたにもかかわらず、です。そこで2005年、移転の打診を受けた4つのNPOは、市民や研究者を呼んでオープンな話し合いの場を設けたりと、なんとか継続の道を探りました。しかし最終的に中断が決定、1つのNPOと2つの任意団体は解散し、他は別の場所に引っ越しして活動を続けることになりました。
この事業は2001年に策定された大阪市の「芸術文化アクションプラン」がもとになっています。このプランは非常に画期的で、価値の定まっていない実験的な芸術こそが文化全体を活性化するのだから、行政の役割は若いアーティストを支援することだと言っていました。ですが翌年、「文化集客アクションプラン」に吸収され、その画期的な側面は骨抜きにされていきます。「集客」という言葉が入ったことからもわかるように、文化芸術は人を集めお金を落としてもらうためのものという考え方ですね。結果的にこの「アクションプラン」は5年で終わり、それに伴い「新世界アーツパーク事業」と、同時に2001年から始まっていた築港の赤レンガ倉庫を用いた「大阪アーツアポリア事業」も耐震構造上の問題ということで中断になりました。
振り返ると、プラン開始から3年で市の方針は転換されています。予算も減り、さらに最初は「協働」と言っていたところが「支援」という言葉に変わった。「協働」を掲げていた頃は、市が明確なビジョンのもとに計画を提示し、対するNPOも専門家の集団として対等な立場で動くという形でした。ところが「支援」だと、「おたくの団体はやりたいことがあるんですね。じゃあ助けてあげましょう」という形になり、行政のビジョンは示されなくなったんです。大阪市の実験的なアートの領域で協働が成り立っていたのはごく数年だけだったと言えるでしょう。ただ、支援になったからダメになったかというと、中には活動基盤を自力でつくって細々続けているところも、民間のサポートを得たりして展開しているところもあるので、一概に大阪のアートの現場の活気が失われたということでもないんですが。まあ、行政はあてにならないんだなという教訓を残したのが、我々含むこのNPO世代でした。結局「協働」というと響きはいいんですけれど、結果、資本とか権威を持っているアクターの判断に、NPOが振り回されるかたちになりやすいということがいえます。それと、文化事業の評価の使い方もはっきりしていないことも問題で、位置づけを明確にすべきです。
さて、1990年代以降、特に2000年代以降、様々な地域や場所でアートプロジェクトが広がってきた背景には、文化施設によるアウトリーチだったり、地域活性化や福祉、医療現場でのアートの活用といった芸術外からの要請があります。私はさきの新世界アーツパーク事業の経緯を通して、いかに文化政策の基盤がないか、評価方法が確定されていないかを2011年の拙著『芸術は社会を変えるか』で考察しました。その本の中ではアートプロジェクトの定義も試みていますが、これは2003年から雨森信さんがディレクターをつとめる「ブレーカープロジェクト」のフィールドワークに多くを負っています。
例えば、2004年のきむらとしろうじんじんさんの「野点」というプログラム。じんじんさんはリアカーに、色づけしたお茶碗を焼く釜と、お茶を点てていただくための一式を載せています。参加者はその場で色付けしたお茶碗を焼いてもらい、お茶はじんじんさんが点ててくれます。例えばこの写真の場所は西成区山王で、南に下がると飛田、東に行くと釜ヶ崎という場所ですが、「野点」は2004、5、7年に新世界や西成区で行なわれました。
次は2008年の藤浩志さんの「まちが劇場準備中」というプログラムです。藤さんは捨てられるもの、特にプラスチックを集めて物量的にに圧倒されるような作品をつくられるんですが、ここではその藤さんを中心に商店街の空きスペースをカフェとレジデンススペースに変えました。また商店街のアーケードにあるシャンデリアのようなものは、ペットボトルでできた「シャンデリー」で、商店街の人には好評でした。こちらは2009年、パラモデルが「鯛よし百番」で作ったインスタレーションの写真です。
こちらも同年のトーチカの作品「Pika Pika」で、地元の人に被写体になってもらいながら撮影した作品です。こちらは2011年、下道基行さんの「サンデークリエーター」。彼は、芸術家とは言われないけれど、日常的に何かをつくっている人たちを見いだし、それを写真に撮りました。
こちらは同年、西尾美也さんの「家族の制服」です。昔撮った家族の写真をもとに、同じ人が当時と同じ服を着て同じ場所でもう一度写真を撮り、その二つを並べるというもので、この地域のいろんな家族を対象に行いました。その服ですが、西尾さんはボランティアの手も借りながら、ご自分で作られるんですが、こういうことは、地域の人たちにまず会いに行ってお話を聞かないとできないですよね。そういったプロセスを大事にする作家さんたちを、雨森さんは選んで呼んでおられます。
こちらは今年、山王にある元家具屋さんをリノベーションした「kioku 手芸館 たんす」で、地域のおかあさんおばあちゃんが集まる場所になっています。これまでは、デイケアセンターと家の往復だけだった方達が、第三の場所を見いだしたと言うことができるかもしれません。そして、大友良英さんという音楽家を招いて3年間続けてきた「子どもオーケストラ」のお披露目と、地元の中学生高校生がつくった盆踊りの歌に合わせていろんな人が演奏し、踊るというお祭りでした。ここまで、2003年に始まったブレーカープロジェクトのいくつかのプログラムを紹介しましたが、こうしたアートプロジェクトは、エリアや作家ごとにじつにさまざまだということがわかっていただけたかと思います。
アートプロジェクトについての私なりの整理が4つあります。
①作家がアトリエにこもって何かつくるのではなく、多様な参加者の協働によって成り立つ。
②仮設であること。一時的にそこに現れる作品もあるし、WSのようにそもそもかたちをもたないこともある。必ずしもパーマネントなかたちがあるものではないということですね。かたちがあるものは、モノとしての価値が測れるので予算をつけやすいのですが、こうした場合だと、作家にフィーが払えないという話ともつながってきます。
③制作のプロセスとその固有性を重視する。
④専門的なものを使うこともありますが、日常の中の誰もがアクセスできる素材、材料を用いる。
これらがアートプロジェクトに共通する特徴ではないかと考えています。
では、このような「アートプロジェクト」に対して実施した調査プロジェクトの2つの事例を紹介したいと思います。1つ目は、日比野克彦さん監修の、2010年に舞鶴で始まった「種は船」というアートプロジェクトがあるのですが、私たちはその記録と調査を担当しました。ただこれは、あるアートプロジェクトがあって、そこに記録と調査のチームが入りましたという単純な話ではなかったんですね。まず、かかわった主体が複数あったということ。京都府舞鶴というプロジェクトの現場に、TARL[Tokyo Art Research Labo]という東京都の事業が入り、アーカイヴ、ドキュメント、評価、展示ということに挑むことになった。まずアーカイヴは東京の「P+Archive」の公文書のプロの人たちが入ったのですが、ファイリングを主体とした既存の方法では、アートプロジェクトの現場は整理しきれないという現実に直面します。一方で、アーカイヴと評価のためには記録と調査がいるということで、大阪のわたしたちが記録と調査のプロジェクトを担当しました。日比野さんのプロジェクトは「種は船」ですが、記録と調査のプロジェクトは「船は種」という名で、大阪の2つのNPO、recipとremoのメンバーで構成しました。まず記録チーム、remoの松本篤さんは「AHA! 人類のためのアーカイヴ」事業を進めている方で、recipの久保田美生さんは、映像制作や場作りが得意な方。一方で私を中心に社会学者2名と、経済学の小林瑠音さんが調査を担当、マネジメントとデータ管理はrecipのメンバーが担いました。
実際に現場に入ったとき、実は大問題がありました。というのも、舞鶴のプロジェクトは3年間行なわれていて、わたしたちが入ったのは3年目なんです。つまり、過去2年の記録をどう掘り起こすか、そして記憶をどう記録に起こすかという問題に直面したんです。「種は船」じたいは2010年から2012年のプロジェクトですが、そもそも日比野さんは2003年の「大地の芸術祭」で「明後日新聞社文化事業部」という、廃校を活用したアートプロジェクトを始めていて、今も朝顔を地元の方々と育てています。それが2007年に金沢に飛び火したとき、日比野さんは朝顔の種を見て「船」という着想を得ます。その後、造船の町である舞鶴にディレクターの森真理子さんの声がけがあり、それなら本当につくろうということになったと。それで、最初の1年は市民とともに段ボールの模型の船をつくり、翌年からは本物の船づくりに着手、そして3年目に自走船「TANeFUNe」が完成、「種は船from舞鶴」という新潟港まで航海するプロジェクトも生まれました。そちらは「水と土の芸術祭」という新潟市の芸術祭の一環として行われています。このTANeFUNeは造船所で正当な手続きを踏んでつくられましたが、一般的に船は速度を出すために先を尖らせるように進化してきたけれど、日比野さんは種の形に、つまりどうしても丸くしようとする(笑)。だから造船所の方々は「なんで丸くするんだ?」と。この船は、これ以上丸くできない、船の究極の形だそうです。
航海プロジェクトは、海の船と陸で物資や資料を運ぶ車(陸班)が併走してゆくのですが、TANeFUNeは小さい船なので3、4時間しか航海できないんですね。そのため、尺取り虫のように港を移動することになる。しかも船はいきなり行っても泊めてもらえるものではないので、陸班が車で先回りして、船を泊める場所と人の泊まる場所を交渉して見つけて・・・という作業が必要になる。それを続けたんです。交渉する力もそうですが、「海の人」ならではというか、「来てしまったものは受け入れざるを得ない」という懐の深さなのか。みなさん、このエピソードを聞かれただけで、絶対すごいドラマがあるだろうって思われますよね? 実際あったんですよ。私も実際に何カ所かの停泊地に行き、インタビュー調査をしたので、知っています。ただ、よくよく思い起こすと、わたしたちの任務は舞鶴での3年間を記録調査するということ、つまり「from舞鶴」より「in 舞鶴」の方なんです。
ということで、船が出てしまった後の舞鶴で、3年間の記憶と記憶の掘り起こしのために行なったのが、「フネタネのつどい」という場を定期的に設けるという方法でした。そのアイディアはさきほども言いましたが、久保田さんと松本さんが考えました。まず、舞鶴のみなさんに過去に撮った写真を持ち寄ってもらって、それを上映しながら、このときああだった、こうだったというのを思い出してもらって、「ふりかえるシート」に書き込んでもらって、回収する。そうすると、いつ何があったかということがわかってくる。一方で調査チームは、その中で名前の出てきた方々や、他にも話を聞く必要のある方々を仲介してもらい、インタビューをしました。こうして記録と調査を連動させつつ、とにかくデータを集めました。
さきほど過去の写真を上映しながらの「フネタネのつどい」について説明しましたが、ここでは「フネタネスコープ」という映像も重要な役割を果たしました。これは舞鶴の参加者のみなさんに、あなたにとってのTANeFUNeは?というようなお題を出して、撮影してもらうんです。定点で1分間、無音、ズームなしという、remoのつくった「remoscope」の6つのルールを3つに減らした形式です。その映像をみんなで見ながら、話をしてもらった。例えばある人は、何もない夜の芝生の映像を撮ってきた。そうすると、この芝生で段ボールの船を作ったのが始まりだったよね・・・というように、みなさんいろいろ思い出して話し始めるんです。こうやって記憶を掘り起こすという作業が可能になったんですね。また、徐々に大阪の人たちがよく来ていることが認知され始めて、地元の商店街のお祭りに合わせて、その地域の古い映像を見る催しを企画させていただいたりと、広がりも生まれていきました。
このように、1分間の映像「フネタネスコープ」と「フネタネのつどい」を記録チーム、参加したいろいろな方々へのインタビューを調査チームという分担で、連動しながら行いました。フネタネスコープは2500本にものぼり、翌年限定でしたがwebで見れるようにもなり、デジタルアーカイヴの試みとして活用されました。インタビューのほうも膨大になり、「ふりかえるシート」や企画書や諸々のデータもすべて含めてA4で250ページ、すごい物量の報告書ができました。アートプロジェクトを調査しようとするなら、これくらい必要だということを示したかったというのもあります。
そして翌年、この「種は船」の元になったアートプロジェクトの現場、新潟県十日町市莇平の「明後日新聞社文化事業部」の現場に入ることになりました。この年は、前年度のようなチーム編成ができなかったこともあり、調査に注力しようということになりました。というのも、この年は10年のプロジェクトを振りかえるという、物理的にとても難しいお題だったので、焦点を絞る必要があったんですね。莇平集落は高齢化が進んでいて、50歳代で若手と言われる。そこに東京の大学生を中心とした若者が来て、月に一回、地域の新聞をつくって配り歩くということを定期的にやりつつ、毎年盆踊りや正月の行事にも参加し、大地の芸術祭がある年には大きなイベントもやるという形で続けられてきました。この地域の住民の多くはお年寄りで、みなさん10年前のことなんかだいたい忘れているんです。若い世代だって10年前は厳しいですよね。とはいえ一年で調査結果を出さねばならないので、この年はベタな社会学の方法で、仮説を立ててデータを集めて検証するということをやりました。昨年同様、東京都の事業として、アーカイブと記録調査が並行して動いています。今回記録チームは調査の一環という位置づけにし、新しい試みとなったのはとにかく全数調査をやるということ。調査スケジュールの問題もあり、一言をいただいて終わりという家もありましたが、みなさんお話をしてくれました。おそらく開始から3年目くらいだったら反発にあっていたと思うんですけれど、10年経って活動が根付いてもいたので、ご協力いただけたのかなと思います。インタビューと並行して来訪者アンケートも行いました。本来ならインタビューをしたかったのですが、労力と資源が限られていたのでこのような形に。ただ外から訪れる方は莇平に対する思いが強すぎて、こんな○×のアンケートで自分たちの思いを拾えるのかと、後になって苦情も耳にしました。その成果もまた、報告書にまとめています。莇平の1年を追ったドキュメント映像もついています。
写真を見ていただきましょうか。毎年、校舎にロープを張って朝顔の種を植えてゆきます。年配の方は地元の方で、若い方は日比野さんのところの学生さんです。ときどき「ちゃもっこ」というお茶会が開かれて、集落の方が持って来て下さった食べ物をいただいたりします。最初は、若者たちは滞在中、集落の方々の家に泊めてもらっていたんですが、集落の特にお母さん方の負担も大きくなってきたときに、ちょうど空き家を借りることができて、自分たちで食べるお米は自分でつくろうと、休耕田を貸してもらったりしています。もちろん、学生たちが来るのは月に一回なので、日頃の田んぼの面倒や朝顔の面倒は、集落の人たちが見るんですね。だから話を聞くと、莇平のみなさんはとにかく「大変だけど楽しい」「楽しいけど大変」という感じでした。
以上の東京都との2つの協働事業では、最終的な目標としてアーカイヴや評価という目的があり、私たちは記録と調査のために現場に入りました。このときは予算がついたからいいのですが、一般的に評価という目的がみんなに共有されていないし、そのための記録と調査にコストがかかるという認識も共有されていない。よく考えたら、事業の運営プロセスの自己検証の一環で、PDCA(plan do check action)サイクルは、事業を改善してゆくためには必要なことですね。と同時に、事業の説明責任として、この事業は何人来ましたというだけでなく、この事業はこういう目的で、こういう資源が投入され、こういうプロセスがあって、こういう成果があってということをちゃんと説明する必要もあるはずです。とはいえ、書類が多いのも問題で、年々公的機関に出さなければならない書類が増えていて、本来の活動を圧迫し、事務局は疲弊する一方という現実もあります。
今、評価と言いましたが、どの段階で評価をするのかも大事です。体感的にもアートって時間がかかりますよね。1年で成果が出ましたなんて、言えないと思うんです。でも事業は1年で成果を出せと言われる。なので、どの段階でということを考えたとき、まず事業が始まり、インプットがあり、アウトプット、これは短期的な結果で、何人来ましたとか、広告が何平方センチでどのくらいのパブリシティがあったとかいうことですね。次の段階、アウトカムとなると、何年か経ってこの事業にかかわったアーティストが、別のフェスティバルに呼ばれたり賞をとったり、あるいは地域の人がアートをきっかけに新たな活動を始めたりと、次なる展開がある。これは中期的な成果ですね。最後はインパクト、これは時間をかけて見える成果ということで、たとえばここでこういうプロジェクトがあったことで、社会にとって芸術って意味があるねという認識が広がって予算が増えたりとか。このように、どのスパンで評価をするかという合意がないままに、評価を出せと言われていることも問題だと思います。そもそも文化事業、アートプロジェクトの評価は難しいです。今私ができるアプローチは、事業としてどうか、プロジェクトとしてどうかというもので、文化としてどうか、アートとしてどうかという問いは後回しにしています。東京都の事業も、2年間の実験で記録と調査のフォーマットは作りましたが、評価まではたどりついていない。
最後に課題と可能性について。東京都の事業は「東京文化発信プロジェクト」の中の「東京アートポイント計画」、その一環であるTARLの事業でした。東京アートポイント計画は都内の既存のNPOと協働事業を行うものです。この東京文化発信プロジェクトは2008年に始まり、2015年4月から「アーツカウンシル東京」と統合されました。「アーツカウンシル東京」自体は2011年にできていますが、「アーツカウンシル」とは、第二次大戦後のイギリスで作られ、日本だと芸術評議会という訳になりますが、芸術文化を専門とする準公共機関です。行政はアーツカウンシルに資金は出すけれど、口は出さないというアームズレングスの法則が肝とされていますが、近年はイギリスも実際は行政の口出しがあると聞きました。日本でも近年アーツカウンシルがつくられ始めていて、東京、大阪、沖縄、浜松、そして文化庁も準備中です。可能性という話に戻すと、東京都と仕事をしたとき、プログラムオフィサーというマネジメントの専門家がついてくれたんですね。東京都歴史文化財団に雇用された人が現場に来て、一緒に動いてくれるんです。都としては、お金を出した先で、それがどう使われて、どういう成果を出しているかをちゃんと見に来るということですが、担当の方は現場と文化行政の制度の間にいて、現場を見ながら動いてくれて、とても心強かったです。こういうことをやろうと思っているんだけど、と随時相談もできた。作り手の言葉も、制度の言葉も分かる、というマネジメントの専門家の重要性を痛感しました。自己紹介のところで触れたインタビュー集『若い芸術家たちの労働』ではイギリスでも話を聞いているんですが、今はアーツカウンシルのマネージャーだけどもともとはアーティストで、数年働いたら創作に戻るという人が複数いました。そのあたりの人材の流動性がすごい。アーティストがマネジメントをしていたり、文化政策の研究をしている若手もアーティストだったり。だから日本でも、アーティストとマネジメントの両方を理解できる人たちが育つと、現場から制度が変わっていくのかなと期待しています。ただ、現場はだいたい長時間労働・低賃金なので、倒れる人もやめる人も絶えない。なんとか雇用を確保したいところです。