【講義録】せんだいメディアテーク 地域文化アーカイブ『民話 声の図書室』プロジェクト:清水チナツ
③レクチャー:アクションとしてのアーカイヴ(2)
「せんだいメディアテーク 地域文化アーカイブ『民話 声の図書室』プロジェクト編」
講師:清水チナツ
コーディネート、司会:久保田テツ
※以下の文章は、2015年7月19日に大阪大学文学研究科で行われた、《声フェス》事業⑧「ドキュメンテーション/アーカイヴ」vol.2の導入レクチャーの採録です。
清水:仙台から参りました清水チナツです。今日は、久保田さんと、松本くんと、事前にこの会でどんなことを話そうかとスカイプで話していた時に、「アクションとしてのアーカイブ」という言葉が、共通したこととして出てきたので、そのことを軸に、せんだいメディアテークで、行っている地域文化アーカイブ「民話 声の図書室」プロジェクトについて、お話をさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
● せんだいメディアテークの「地域文化アーカイヴ」
さっそくですが、せんだいメディアテークをご存知の方っていらっしゃいますか? あ、ご存知ですか? 行かれたことは? 建築家の伊東豊雄さん設計で有名な建物ではあって、ソフトをやっている者としては辛いんですが、建築が注目されている施設だったりします。
まず、メディアテークのことから簡単に説明させていただきます。メディアテークは、このようなガラスの箱を重ねたような建物で、仙台市の生涯学習課管轄の生涯学習施設です。建物の前には定禅寺通りのけやき並木が続いていて、ガラス張りで、通りとつながっているような、広場のような空間が1階にあります。2階から4階までは、映像音響ライブラリーや市民図書館があります。5階と6階にはギャラリースペースがあり、メディアテークでも企画展を行いますが、それ以外に、市民の方々が自分たちの表現の発表の場として、貸館の利用もされています。今日お話しするのは、最上階の7階の「スタジオ」と呼ばれているスペースでの活動のことです。7階には、私が働いているオフィスが中心にあって、その外周をぐるっとドーナツ型に囲む形でスタジオやシアターがあります。スタジオと言っても、特に部屋にわかれているわけではなく、巨大な通路のようなところに家具が点在して、そこで、市民協働の活動—資料整理や映像編集、対話型のイベントや小さな展示が日々行われているような感じです。
このスタジオの活動の根っこには、メディアテークのコンセプトでもある「美術や映像文化の活動拠点であると同時に、すべての人々がさまざまなメディアを通じて自由に情報のやりとりを行い、使いこなせるようにお手伝いする生涯学習施設」という考えがあります。要するに、メディアを通した学びの場づくりというのが、このスタジオ活動のコンセプトになっています。そのスタジオ活動の枠組みのひとつに、地域文化アーカイブというものがあります。これは、さっき松本くんの紹介にもあった8mmフィルムのプロジェクトなどにも関係してくるのですが、各時代の街並みや、生活が記録された写真やフィルム、映像資料や音声資料ーーそういった地域の文化の伝承、人々の記憶や自分達に関わるものを、自分達の手で記録して、それを出版物とかDVDとかウェブサイトなどを通じて、将来にわたり広く公開・共有していこうというような取り組みが行われています。それが「地域文化アーカイブ」という活動の枠組みです。
●「みやぎ民話の会」との出会いと「民話 声の図書室」
このスタジオはメディアテークの中でも震災の被害が一番大きかったので、震災後の約一年間はその機能を2階に移して行っていました。そのスタジオに、震災から約2ヶ月経った頃、「みやぎ民話の会」というグループの方達が訪ねて来てくれました。80代の小野和子さんが1970年代に設立した20名ほどの市民グループです。この時訪ねて来てくれたのは、そのグループの5・6名ぐらいの方々でした。今日ここからお話しするのは、この方たちと始めた「民話 声の図書室」というプロジェクトについてです。出会ったのは震災の後でしたが、そこからどういう風にこのプロジェクトが立ち上がってきて、今どのようなことをやっているかを、ご紹介したいと思います。
この民話の会さんがある日、1000本ほどのカセットテープを、大きな風呂敷に包んで持って来られました。お話をよくよく聞いてみると、これまで宮城県を中心に、45年近く民話の聞き取る活動を行ってきた。カセットテープが1000本以上あり、当時、高価であったカセットテープで録っているけれど、押入れで保管されていることもあって、ちょっと劣化が進んできた、というようなお話でした。その時に、これまでずっと、音声で録音したものを元におこしたテキストで資料集をつくり、そこから自費出版の本にまとめてきたけれど、目の前で話を聞いているときの表情とか、何かを思い出す仕草とかを捉えることができなくて、メディアの限界を感じているということも、おっしゃっていました。もうひとつ大きかったのが、民話はこれまで災害とか、そういった辛い状況が起きた時に、人々がそこからどう立ち上がってきたかっていうことを、実は繰り返し語ってきたものである、と。今回災害が起きて、目の前でそれを経験している人たちが、今新たに、自身の体験を語り始めているんだと。それこそが、今後何百年先かわからないですけれど、民話になっていく種のようなものじゃないか。だから物語る人というのを、今、映像で記録しなきゃいけないと思っていると。だいたいこんな2つのお話しを持ち込んでくれました。
メディアテークって、ガラス張りの現代建築なので、あまり年配の方達にとって馴染みやすい場所ではないんですね。なので、どこでお知りになったんですか?っていうことを最初尋ねたら、やっぱり最初は、その道のいくつかの専門機関にも、資料の持ち込みをしたらしいんですが、いい手応えが得られなかった、と。というのも、民話は文学者や歴史上の英雄が語ったものではなく、市井の人々の語りなので、資料価値が低いと判断されたこととか。この時期に何々があったという、歴史的な事実を参照するような資料であればいいが、民話はフィクションー架空の物語の要素もあるので、それをとっておく理由があまり見つけられないとか。色んな館から断られて、最後にメディアテークにちょっと疲れた感じでやってきたんですね。私たちとしては、ここが、生涯学習施設だという館の特性もあって、その活動自体が民話の会さんにとっても学びの場であるとか、その学びの場自体が他の市民の方々にも開かれてあるのであれば、学術的な資料価値とか、そういうことはあまり問わない。なのでスタジオで活動してもらうのがいいんじゃないか、受け入れない理由は無いだろうということを、お話ししました。あとは、古いカセットテープの劣化も進んでいたので、デジタル化は急務。どうにか音声を救い出そうということもありました。また最後におっしゃっていたように、今この場で物語りが生まれようとしているー震災の体験をまさに自分自身で物語ろうとしている方がいらっしゃるんだったら、ビデオカメラでの映像記録や、スタジオの映像編集や打ち合わせができる環境を活用して頂いて、その活動を後ろ支えしたいな、と。こういう話し合いの場から「民話 声の図書室」プロジェクトは2011年5月に、始まりました。
●「映像で被災した」若い映画監督たちの合流
最初に着手したのは2011年8月、南三陸で「みやぎ民話の学校」という催しを、民話の会さんが開催されたときの映像記録です。民話の会さんはこれまで隔年でこの学校を開いてきていました。県内の民話の語り手を招き、全国からの参加者と膝をつき合わせて、泊まりがけで民話を聞くという手づくりの学校です。震災のおきた2011年にもこの学校を丸森という福島に接した地域で行おうと、前年から計画なさっていたのですが、原発被害の状況がどう影響してくるか定かでないこともあり、丸森での開催は中止になりました。ですが、場所を南三陸ーここは津波の被害が大きかった地域ですが、そこに、今回の震災でさまざまな被災をされた語り手の方達に来ていただき、その語りを映像で記録をしようというところから始まりました。本番は、心に重いものを抱えていらっしゃる方たちもいる中、また水道が復旧していない中、泊まりがけのプログラムを運営したりで、民話の会さんは手がいっぱいだったんですね。一方で、ちょうどみなさんにお配りした、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」という、2011年5月に立ち上げた震災の記録を市民協働でアーカイブするセンターに、東京から濱口竜介さんという若い映画監督が訪ねてきてくれていました。彼は、「東京に住んでいて、連日、報道の映像を見ていた。僕らは映像で被災した」と言ってこられた方で、自分自身の目で被災地のこととか、目の前の人の語りに目を向けたいと。ただ、東北に知り合いがいないからそういった方々になかなか出会えない、と。民話の会さんは、映像を撮ってくれる人を求めているし、映画監督達は、震災のことをオーラルヒストリーとして語ってくれる人を求めていた。求めているものが一致するから、一緒に活動してみたらどうですか?と。そういうことで、プロジェクトが動き始めました。
●「採集」でも「採話」でもない「採訪」する人たち
そのようにして協働でプロジェクトを行っていくなかで、最初は、民話の愛好会の方々というくらいしか認識できていなかった民話の会さんの姿というものが、だんだん、見えてきました。民話の会さんは、「私たちは、民話の採訪者のサークルです」という言葉を使うんですね。つまり、語り手のグループではなくて、自分たちは、“聞き手”の集団なんだということをおっしゃるんです。また、「採訪」というあまり馴染みのない言葉を使うので、それってどういったことなんですか? 教えてくださいと尋ねました。教えてもらったのは、こういうことなんですが——
「民話を語ってくださる方をたずねて民話を聞くという営みを「採集」といったり「採話」と言ったりする場合があります。
ただ、私たちは「語ってくださった方」と「語ってもらった民話」は、切り離せないものと考えています。
だから「採集」つまり集めるということや、話を採るというような「採話」という言葉は使いません。そのかわり「採訪」といっています。
この「採訪」という言葉にこめた私たちの思いは、「民話」を「聞く」ということは、全身で語ってくださる方のもとへ「訪(おとな)う」ことだと考えているからです。そこで語ってくださる方と聞く者が、時には火花を散らしながら、もうひとつの物語の世界へ入っていくことによって深くつながっていくのだと考えています。」
——と、このように教えてくれたんですね。こういうあり方、聞き手のあり方というようなことを、口になさったんです。もう、お気づきかと思うんですけれども、これは宮城県の地図で、赤い湿疹を起こしたみたいな、尋常じゃないことになっているんですが。これは、彼女らの採訪の跡を印した地図です。45年の歳月をかけて、一軒一軒訪ねて歩いた地域にこのような印がなされて。しかも一度や二度ではなくて、何度も繰り返し訪ねている場所です。その結果として、1000本以上のテープがある。
このような感じで、1970年代からずっと民話を聞く活動をやっておられたんですね。それで、この写真は採訪の様子なんですけれども。彼女らは研究機関でもない、在野のサークルなので、なんの確約もなく、山里の村とか海辺の集落を一軒一軒訪ねて、昔話を語ってくださる方いませんか?ということで、ひたすら訪ね歩いてきたんですね。話がひとつも聞けない日も多くあったという風に言っていました。そして、カセットテープに記録した音声もちょっと特殊なあり様になっていて——というのも他の研究者の方達は、民話を聞きに行くので、民話が始まったらレコーダーのボタンを押して、終わったら切る。だから他の暮らしの話というのは、大体の人は録音しないとのことでした。民話の会さんも最初は、学者の方と一緒に廻っていたこともあったらしいのですが、いわゆる「民話」だけが録音され、他は録音しない方がほとんどだった、と。けれども、それだと民話自体が語り手の暮らしと切り離され、宙に浮いた架空の物語として姿が変わってしまうと感じられたそうです。そこで、暮らしの話までひっくるめて全部録音していたんですね。それが、1000本のテープになっていたんです。テープのデジタル化は、昨年終わりまして、どうにか寿命はちょっと引き伸ばした状態です。その1970年代に始めた採訪活動なんですが、実は、45年経った今でも続けていらっしゃって、これはつい先日、語り手の方の映像記録に行った時の写真です。ビデオカメラを持った若い人たちの姿も見えると思います。
このように、「声の図書室」プロジェクトを立ち上げることで、民話の撮影に同行するカメラの技術を持った若い人たちとの連携が生まれてきました。20代から30代の若い方々がこの方達の活動に合流して、一緒に記録活動を手伝ってくれたりしているのは、「採訪」という聞き手としての民話の会のあり方や所作に、カメラを向けている自分たちが学びたい何かがある、と。それは直接的なわかりやすい技術ではないんですが、「自分たちはこれまでカメラの後ろで安心していた、スイッチを押せば撮れているということではない、何か聞き語るという空間の中で起こっていることを、この方達の採訪に合流させてもらうことで学べるんじゃないか」と。すごく気の長い活動だとは思うんですが、若いグループで撮影チームも5人ぐらいで組んで、今でも毎年採訪に同行して撮影に行ってくれています。
● みんなで観て、聞いて、語りあう
こうして最初は、採訪活動が民話の会さん単体の活動であって、声の図書室プロジェクトを始めてから、その採訪の映像撮影がなされるようになった。そしてその次のフェーズ、編集の話に入ってきます。どういう風に編集しているかというと、実はとってもアナログな方法でやっています。まず、記録してきた映像を、これ4時間とかあるんですが、睡魔と戦いながら(笑)ひたすら観るんですね。民話の会さんもそうですし、撮影チーム、私たちスタッフも含めて、みんなで観ます。あとは、映像を話してくれた順に、なんの話を順に話してくれたか、タイムラインを模造紙に全部書くんですね。そして、模造紙に印象に残ったところと、カットするべきところー語り手を守るためにカットの必要な個人情報など、そういうのを付箋に書いて貼っていくんです。そうして印象に残ったところというのは、話しの内容についてはもちろんですが、たとえば何か思い出そうとして本人が自分の記憶を辿っている姿だとか、あの話をしている時は子供の時に戻ったような表情をしていたとか——話の中のことだけでなくて、映像的に魅力的なシーンというのを、みんなで付箋に書いて貼っていってもらい、発表してもらいます。そのようにみんなの意見が寄せられた模造紙を囲みながら、最後に一時間をほど対話する時間をとっています。この映像のどこを観て欲しいか、ここに写っていた語り手ってどういう人なんだろう?などを話していきます。そういった対話の中で、「映像には、語り手の戸惑った表情がうつっていた。語り手の方は、語ったことがどこへ向かうのか本能的に知っている。だからこそ、聞き手としては、語り手の言葉が彷徨わないように、受け止めなければいけないんじゃないか」とか、「話している内容自体が、どこまでが真実で、どこからが虚構の話かわからない。でも厳密さを求めるんじゃなくて、狐につままれたようなこの鑑賞感覚を大事にした方がいいんじゃないか」とか。
現在、映像で記録している方は90代のおばあちゃんなのですが、升沢という地域で、土地が痩せてお米も育てられないような山奥で、冬は雪が深くて、現在の感覚からすると暮らしていくだけで本当に大変そうな地域なんですけれども、その山の暮らしが好きで、目を細めながら、いろんな話—山の地形を生えているキノコの位置で把握していたことや、狐に会ってお話したことなどを話してくださるんです。しかし、現在ここは自衛隊の実弾射撃演習場になり、定期的にドーンドーンと地響きのするような場所に変わりました。2000年に集団移転がなされ、もう住めなくなった場所です。しかし、このおばあさんはそのことをカラッと話すんです。現実的な状況がどんどん変化していくことに関しても、狐に会った不思議な話も、すべてあったることとして、淡々と受け止める感じがある。こんな目にあって苦労したといった話をしないのが、すごく不思議で。「彼女は、究極のリアリストではないか」と、いうような話が出たり。だんだん、哲学カフェみたいな場になってくる。つまり、ここでいう超アナログ編集会議は、決して、撮影技術とか編集方法とか、HOWTOの話ではなくて、記録にどう向き合うのか、その撮れたものにどう向き合うのかっていうあり方や、記録するというアクション自体をどのように捉えたらいいのかっていうこと、また自分たちの暮らしぶりが違いすぎてわかりきれないことにどう向き合っていくかを、延々と話しているような感じです。この話し合いを元にして、カットすべきところはカットし、重点を置きたいというところは、並び替えなどをしたりして、DVD(http://www.smt.jp/projects/minwa/)が完成します。これまで4名の語り手の方の10本のDVDが完成しました。時間があれば、見てもらいたかったんですが。今作っているものは、さっきの編集会議を経て、11月までには出来上がる予定です。
●「アーカイヴをつくるだけでは、死蔵しているのとおなじ…」
そうやって完成した民話のDVDは、メディアテークの2階の映像音響ライブラリーで、他の市民の方々にも貸し出しされるようになっています。この民話のDVDは人気があって、市外や県外からの貸し出しの希望も出てきました。メディアテークの元々のライブラリーの仕組みとしては、市外の貸し出しNGだったのですが、そういう要望が多くなってきたので、県外や市外への貸し出しも出来るように、仕組みの方も整備しなおしました。こうして、「撮影」「アーカイブ」というところまできたんですけれども、よくよく考えてみると、これではまだ、民話の資料が民話の会さんの押入れからメディアテークのライブラリーに場所を変えたというところまでしかいっていなくて、アクセスしてくれる人は、確かにいますけれど、それがどのように届いているのか、何も私たちは知る術がなくて。押入れからライブラリーへと、少し前に出てきたっていう状況ではなにか足りない。もう少し資料の利活用について考えられないかなということを話し合いました。
アーカイブという言葉は、幻想を抱きやすい言葉だなと常々思っているんです。メディアを変換すれば半永久的に残ると思い込んでいる。私たちももちろん、カセットテープの寿命をもう少し伸ばすために、メディア変換をしましたけれど、そうすれば、100年は残るとか、記録していれば、何か映るだろう、とか。「残す」ということが、考えを一旦、保留するような側面がある。それが、必ずしも悪い部分だけではないんでが、アーカイブの制度設計自体を間違えると、例えば公文書館等のようなきちんとアーカイブはされているけれど、見たい時に、申請書類を山のように書いて申請しないとアクセスできないとか、研究機関などに収められていて、専門家のアクセスしか許可されていないというふうになると、アーカイブがどうしても権威的なものと結びついてしまって、自分たちが身近に活用できる資料になっていかないんですね。気軽にアクセスできない。歴史的な〈史料〉としての価値は帯びてくるかもしれないけれど、気軽に触れる資材としての〈資料〉になっていかないというのがあるんですね。そうしないためには、アーカイブを耕して、育て続ける人や場づくりの方が大切なんじゃないかと思っています。余談ですけれど、DVDとか、現在の光触媒の媒体だと、専門の工場などでしっかりプレスしてもらって、すごくきっちりした保管庫で保管すれば、寿命は100年といわれていますが、一般家庭とか、プレスをしっかりしていない媒体だと、10年や30年が寿命じゃないかと言われていて、フォーマットとかも、どんどん変わり続けてしまうので、変換する気概を持った人がいないと結局、アーカイブが100年もつとか、長く保たれると思っていても、実際には、葬り去られてしまうというのが現実じゃないかと、この活動をやっていて思いました。
大事なので繰り返しますが、アーカイブを作って、それで終わりにするんではない。耕して育てていく場、人が、実際にすごく重要だと思っています。そのためには、アーカイブの利活用を考えないと、いけないなと思っています。最初、松本くんも同じようなことを言っていましたが、最初からこのような一連のプロジェクトの青写真や問題意識があったわけじゃない。1個ずつやるたびに、あれ、ここまで出来たと思ったのに、全然それでは足りていなかったということがよくあって。どんどん続きのプロセスが必要になって、プロジェクトがある意味では豊になる状況があるんです。
完成したDVDを単に棚に並べておくんじゃなく、じゃあこのDVDを実際に使って、再訪者の視点から民話を紹介し、他の市民の方々と対話するイベントをやってみようって、「民話ゆうわ座」というイベントを行うようになりました。実際に、どういったことをやっているかですが、サルカニ合戦とか、一般的によく知られている話を題材にする。そのサルカニ合戦は、サルがカニにひどいことをして、サルがやっつけられるって終わり方が一般的。それで最初に導入としては、絵本や教科書で習った一般的な話を一緒に観ていくんですけれど、次に私たちが暮らす地域では、伝承の語り手がどのようにその話を語ってたか、聞き比べてみましょうと「民話 声の図書室」で作ったDVDを観る。すると、その土地の美意識や倫理観が反映された話になっていることが透けてみえてくる。たとえば最後にサルがやっつけられるのではなくて、サルとカニが罵り合って終わりとか、子孫の代まで復讐劇を繰り返すとか。話の細部や結末がそれぞれの地域で書き換えられていたりする。そういうのは、単にDVDを並べているだけでは気付かないところだし、長く民話の採訪活動をやってきたこの方達だから知っているところもあるので、実際作ったDVDを活用して、こういう対話の場をつくっています。その映像を囲みながら、一般のお客さんとの対話もすごく興味深いです。「私は、やっぱりサルが最後に死ぬっていう言葉を子供達に言えない」って、おっしゃる方もいるんですよ。「死ぬ」っていうのを子供達に直接言うのは、どうなの? とか。でも、「語り手としては愛情をもって話せば、どんな残酷なことでも、ある大事なものは受け渡せるのではないか。死を隠すのではなくて、子どもとともにそれを話し合ってみることに挑戦したい」とか。そういう対話がなされるので、その内容を紙媒体にして紹介したり、ウェブサイトには当日配布した資料とイベントのテキストおこしがダウンロードできて、いつでも、みなさんが触りたいと思った時に、副次的な資料として、触れられるものとして用意しています。そんな風にして、イベントの内容をテキストに起こしたり編集したり、アーカイブの副読本のようなものとして、印刷物を協働で私たちは作ってきました。
それは映像記録というのは、時間をそのまま凍結させたような、素材そのものに近いようなイメージがあるので、それをどうぞ好きに使ってくださいといっても、使いこなすことが難しいからです。凍結され固まっているそのものとしての、素材をどう解凍したり、どう料理したり、アレンジできるかというところまで示さないと、実はなかなか活用するのが難しい。そうといった考えで、アーカイブの活用の一事例として、このようなモデルづくりを協働で行っています。
● 展覧会「物語りのかたち ー 現在に映し出す、あったること」
対話型のイベントは実際にメディアテークに足を運べる人に限られるので、目の前の人に実際渡していくようなことになるんですが、それとは別に展覧会という枠組みでもチャレンジをしています。「民話って聞いてもあまり興味ないわ」という方とか、世代や地理的にも隔たりがあって、なかなか興味を示しにくい方達は、確実にいると思うので。そういう方達にも関心をもってもらえるように、6階のギャラリーを使って、今年の冬に開催する、民話をテーマにした展覧会の準備を目下みんなでやっています。「物語りのかたち ー 現在に映し出す、あったること」漫画家の『ぼのぼの』を描かれているいがらしみきおさんや、美術作家の田村友一郎さんや、山本高之さんというアーティストと一緒に企画をしています。
このように、市民協働プロジェクトを持ち込んだ展覧会の参考として、昨年取り組んだ、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動に焦点をあてた展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」の様子を映像でみてもらいたいと思います。
—-映像
お配りした資料をピラッと開けていただくと、会場の図面となっていまして、6階のギャラリーの中に20数部屋からなる家があるんですね。リビングルームとか、ベッドルームとか、台所とか部屋がが、ずーっと連なっています。その中に、震災の記録として市民の方々から寄せていただいた記録を展示しています。なぜこんな展示にしたかというと、他地域の災害のメモリアル施設にも伺ったのですが、なんというかiPadを触れば、その地域の被害状況がポンとでてくるとか、最新のメディアを使っているんですけれども、それが本当に自分たちの身に起こったことだというように情報が身体に入ってこない。あとは震災を特別なこととして扱い過ぎると、そのトピックが際立ちすぎて、震災を体験していない人にとっては、「特別な場所の特別な人たちに起こったことだ」という風にしか捉えられないという状況があったんですね。翻って、私たちが震災のことをどのような状況の中で向き合っていたかというと、震災の後、各家庭や友人宅など震災のことを日常空間の中でみんなよく語り合っていました。あとは、なんか、テレビとかで報道されている空撮映像をみても、自分たちの視点とは全く違うから、実際に体験した人にとっても、自分たちの記憶と結びついてこないというような感覚もありました。では市民の人達が撮った記録を、観るのに相応しい場所はどこなんだろうって考えたら、やっぱり日常の中で起こった震災だったので、日常空間の中に展示をしようと、スタッフで話し合いました。ただし、それは一次資料としての家具ではないので、あくまで日常空間の演出にとどめること。そのバランスを意識しながら、この時は、リサイクルショップから、家具などものを集めてきて日常空間をつくり、その中に映像を展示しました。だから、今回も何かしらそういった空間の演出も入りながらの展示になっていくと思います。
実際に展覧会を開いてみると、アンケートなどでたくさん意見が来場者の方から寄せられるんですね。でも、展示した側のステイトメントなどは残るけど、それをどう見たかという鑑賞者の方の意見は残りにくいんですね。だから、私たちはそれはどうにか拾いたいと思って、twitterとかアンケートとかで書かれていたものを、全部文字にして、展覧会が終わった後に、その記録集としてタブロイドを作成し館内で配架しています。
今年度の展覧会「物語りのかたち」のテーマになっているのは次のようなことです。
「・・・歴史は「声高に」物語るべきではない。しかし、「声低く」ではあれ物語られない限り「死者の声」はわれわれのもとまで届かないのであり、忘却の海の中に消え去るほかはない。歴史的過去に埋没した死者の声を掘り起こし、それを知覚的現在にまで伝達する「精神のリレー」を可能にするものこそ、語り手と聞き手との批評的共同作業とも言うべき「物語り行為」なのである。」
これは野家啓一さんという、『物語の哲学』という本の著者であり哲学者の方です。その野家さんの考えにヒントを得ています。民話はおばあちゃんが語ってくれる懐かしくて面白い話っていうことではない。民話の会の再訪という言葉に現れていたような、「聞き語る」という関係性の中で、死者の声や先祖の声を聞くような営みとして、もう一度、民話自体を捉え直せないか。そういう考えで、今、取り組んでいる展覧会です。
※のちに、開催された展覧会『物語りのかたちー現在(いま)に映し出す、あったること』
●「民話声の図書室」プロジェクトから生まれた動き
こうして、民話の会さんが行っていた採訪に、「民話 声の図書室」プロジェクトというのを一緒に立ち上げて行っていくなかで、こういうようなプロセスを経て、プロジェクトの形がどんどんできてきました。撮影、アーカイブ、それを利活用する場として、ライブラリーに配架したり、対話イベントで目の前の人に利活用の方策を提示したり、あとはもっと表現の分野に持ち込んで、異分野の人たちにも興味関心を持ってもらえるように、展覧会で遠くの人へ届けるようなことをやってきました。こうやって動いていると、面白いことに、また他のプロジェクトみたいなものが生まれてくるんですね。その事例としては、映像作家の濱口竜介さん・酒井耕さんは、当初震災の語り手の話を聞きたいと言っていたんですが、「民話を聞き語るという行為と、そこで浮かび上がる空間そのものを撮りたい」ということで、最終的に『うたうひと』(http://silentvoice.jp/utauhito/)という映画を完成させました。これは、関西地区でも上映されていますし、海外も含めて今も上映され続けています。あとは、撮影に加わっている若い子らのチームが、「もっと自分たちは、記録という行為に備わっていることを、もうちょっと考えた方がいいんじゃないか」と、戦後に、さまざまなメディアを駆使して自律的な記録活動が盛んに行われたことを参照にしながら、東京国立近代美術館発行の論考集「実験場1950s」を読み直す読書会というのが、今始まっています。
それで、改めてなんですが「アクションとしてアーカイブを考える」ということを、もう一度みなさんと考えたいなと思っています。私が、自分が携わってきたこれまでの4年間の活動について、順を追って説明をしてきたんですけれども、最初から、私一人でこの設計図が描けてたわけでは全然なくて、このプロジェクトに関わってくれた人たちが、様々な問題意識を持ちこんでくれたことで生まれた活動なんです。DVDが完成したと喜んでいると、「それだけだったら、ほんとに見る人がいるかな?」とか。「DVDにしたからと安心してても、この媒体多分あと30年で寿命がきちゃうよ」とか。そういうことを、まわりから色々言ってくれたり、あとは、アーカイブ自体を、もう一度別の利活用の場を試してみようよという風に、アーカイブを耕したり、育て続けてくれた人たちがいたので、こういう風にどんどんプロジェクトが派生して動いているんだと思うんです。アクションが次のアクションを生んでいったんだなと実感しています。
最後に、このプロジェクトに踏み込んで、私も今、目下これをやっている最中で、展覧会も準備している最中なので、どういうことになっていくかということは、未知の領域なんですが、なんかこういうニオイがするみたいなことを、ちょっと乱暴かもしれないんですけれど、最後にみなさんにぶつけて終わりにしたいなと思っています。
●「アクションとしてアーカイヴを考える」ために
今日最初、古後さんに、みなさんの中には大学生の方もいらっしゃるけれど働きながらこのプロジェクトに携わっている方もいるんだとお聞きして、なるほど、と思いました。民話の会の活動もそうですが、メディアテークのスタジオ活動もほとんど、みなさん“生涯学習”として余暇の時間を使って活動なさっています。これらの活動は、「互酬」という関係がないと、なかなか成り立ちづらいなと思っています。互酬というのは、お金とか金銭的な意味ではなく、ある益というか、何か得るものがお互にあるということですね。たとえばさっき触れた「民話ゆうわ座」というプログラムなど、3時間のものを組もうとすると、すごく大変なんですね。それで、お客さんも100人ぐらいいらっしゃるので、主催者がどうしてもサービスする側にまわってしまう。でも、サービスし続ける状況だと結構へとへとになって…。お客さんは入ったかもしれないし、イベントはある一定、成功したかもしれないけれど、ハテ、なにか自分たちの活動に還せることあったかな?みたいに。肉体疲労からくる達成感はあるけれど、プロジェクトの内容に伴う達成感というのは、薄れてくるところがある。なので私たちがよく話しているのは、お客さんへのサービスとしてはやらなくていい、ということ。そうではなく、とにかく自分たちがぶつけてみたいという問いを、少し難しいことでも抽象的なことでも、とにかく来場者の方にやぶつけてみて実験してみましょうということを言っています。それが出来てギリギリ互酬のバランスは保てる。来場者に向けてのサービスではなく、なにか来場者の意見を聞いてハッとすることがあったときに、民話の会も自分たちの採訪活動に還していけるというのがあります。あと、みなさんのような“在野の学習者”というあり方は、とても重要だなと思っています。最初にお話した時に、手書きのメモで、凄まじい何かがあったとか、なんとか残したい欲望があったというようなことを、おっしゃっていた方がいましたね。やはり自分が一生涯をかけて取り組みたいと思っていることを、大学に在籍している/いないに関わらず続けている人たちのエネルギーはすごいなと、私も、毎回会うたびに活力をもらっています。とても貴重な存在だなと思います。
「バナキュラー」という言葉で考えているのは、その土地でつくられて、その土地で活かされるということ。アーカイブとか図書館とか博物館という大きな仕組みのイメージがみなさんのなかに最初あったと思うんですが。やっぱり、これはこの土地で採れたものを、この土地に還していくというのが、私たちが今やれる活動のサイズ、響き方も含めて適正だなぁという風に思っています。とは言え、地元に住んでいる人にとっては、当たり前すぎて価値を認めにくいものは多くあって。だからこそ、民話の会のように外からの来訪者が「聞き手」となり、それをその価値も含めて、その土地に伝え還す存在も大事だなと思います。
次に「記録とは静的なものではなくて動的なものである」っていう風に書きました。アーカイブというものは、媒体に書きこんでこのまま置いていけば、何も動きは起こらないんですが、なにかこれを自分たちの道具にして、イベントをやってみたり、別の人がこれを見たら、どう思うんだろうって映像を介して話をしたりすることで、アクションが加わってゆき、次の関心やグループと結びついていくきっかけになると思っています。
「発言は発言者から離れ、別の人に定着する」ということ。これは、民話の採訪活動に同行していて感じることですが、「あなたが言ったことが、私が言ったことであるかのように思えてくる瞬間」みたいなのがあるんですね。それは説明しづらいんですけれど、深い対話が現れた時に、その言葉—その場のみんなが聞きたいと強く欲したなかで出てきた言葉というのは、最終的には、誰が発話者であるかとか関係なくなる。そういうことがあるということ。「聞く」っていうのは、単に頷けばいいとか、そういうことではなくて。誰が発話者—語り手であって、誰が聞き手であるっていう役割自体も、超えていくような関係ってあるんじゃないかなと思っています。語り手・聞き手が反転しながら、その場で欲されたものが、現れてくる瞬間。その経験は居合わせた人々のもとに定着していくと思うのです。
「自分の狂気と向き合い、それを公に接続していく」ですが、これがとても大切です。民話の会自身が歩いて、聞いてきた民話の資料はすごく大事ですが、その道の専門機関に資料の寄贈や保管の相談に行っても、断られた経緯があると先ほど言いました。それでも、彼女たちの中にどうしようもない、狂気的な、渇望というか、「これを伝えないと、先祖の声が途絶えてしまう」とか、「人間が生きて行くためには、もうひとつフィクショナルな世界が必要なのだと思う」とか、そのような気持ちとともにある記録。狂気とか愛好こそ、何よりも活動のエンジンであると思いますし、そのように、民話の会とアーカイブの利活用の場をつくるようになったら、実は、そこに専門機関の方が訪ねて来られるようになって「そのプログラムを是非うちでやってください」とか、「うちでも、アーカイブさせてください」と言われるようなってきたんです。そうして様々なアクションを起こすことで、ようやく、本当の価値をまわりに納得してもらってきたというところもあります。色々難しいことはあるんですが、愛好とか狂気的な欲望みたいなものは、取り替えのきかないものだと思っています。これだけは、誰も代行することができない。また、「個人的な欲望が、社会的でないとは決して言い切れない」と私は思っていて、こういう風にメディアテークにプロジェクトを持ち込んでもらって、色々話をしていくと、彼女らの中にメディアリテラシーに通じる何かが深く根ざしていて、それを色んな人を引き合わせることによって、後ろ支えされるような言語がどんどん積み重なっていったり、協働プロジェクトが生まれていったりする。なので、あまり自分の個人的な欲だから、社会と接続しちゃだめなんじゃないか、とか、公に出しちゃいけないものなんじゃないかということではなく、むしろもっとそれを公に出して、みんなの中で輪郭をつけて問うていくようなことが大切なんじゃないかと思っています。
「物語る主体となることから、歴史と関わる」と書きました。私たちの感覚として、教科書とかで歴史の授業は受けてはいるけれど、年号で、何年に何があったというのは覚えているんだけれど、そのもっと奥で、自分たちが歴史と接続しているっていう感覚が薄いところがあると思うんです。ただ、松本くんのAHA!の活動とか、この民話のDVDとかもそうなんですけれど、暮らしの語りとか、その中で何が起こったかという話が物語として現れた時に、ようやく自分たちの足元に流れている歴史が実感されるんじゃないかと思います。なので、物語るということ、聞き語るという関係の中で、単に受動的に聞くという体だけでなくて、聞いたからには、つぎは物語る主体となっていくっていうことを、次に考えたいステップとして頭に浮かべています。
最後にたくさんの言葉を投げこんでしまいましたが、この場でわかりきれなくてもいいですし、私ももちろん全然わかりきれていなくて、つねに考えていく作業が、ときに展覧会という形で現れたり、記録されたりしていくのかなと思っています。乱暴な終わりですみません。ありがとうございました。
質問タイム
受講生:どういう状況で民話は語りはじめられるんですか?台本もなしに
清水:私たちは、聞き手の方と協働しているので、語り手に対して聞き手が向き合いながら、話を聞いていきます。台本などはなくて、もちろん語り手から聞きたい話というのは描いていくのですが、当日の現場では、それには頼らずに、場の流れで聞いていくことになります。撮影は、カメラを複数台用意して、聞き手と語り手両方にカメラを向けて撮影しています。映像自体は、聞き手と語り手が交互に。このシーンは、この表情がよかったから、聞き手の方を映してほしい、語り手の方を映して欲しいという風になっていて、聞く語るということが同じタイムラインの中で流れてくるように編集しています。あとは、民話は暮らしのことと不可分だという考えを持って活動されてきた方たちなので、パッケージには民話のタイトルだけでなく「語り手 正子さんのこと」ということで、語り手ご本人についての話も入れています。
受講生:何か資料を探すときに、こういうのよく利用しますわ。あと、民話の源流をよく考えますね。有名な話もたどっていくと、ヨーロッパまでいってしまったり。そうすると、すごいドキュメントなんですよね。大事に語り継がれているのでが、すごく面白いテーマですね。
清水:実際、民話の伝承調査報告書という、こんな4cmくらいある分厚い報告書を見せてもらったんですが本当にすごいドキュメントです。少し話しが変わりますが、私は、その序文に惚れ込んでしまって。すごくかっこいい文章があって。5大昔話ってありますよね。桃太郎とか一寸法師みたいな有名な昔話。でもその根っこ、源流をたどっていくと、実は学校で教えられている。戦争が背景にあると、武勇伝に仕立て上げられ、勧善懲悪の世界を語る民話として伝わっているので、実は土着から生まれた話ではない。教育や啓蒙の目的のもと教えられた話なので、この報告書では割愛しますといって・・・
一同どよめく
清水:・・・ほとんどでてこないんですよ。それで、何が載ってるかっていうと、「おっかなくって、おもしろくて、悲しい話」っていうタイトルで、「鬼が、屁をこいて、死んだんだと」という一言だけのお話が載っていたりする。5大昔話割愛しといてこっちをとるか〜、と。「そういう話を集めたほうが、その土地に土着の文化が残っているということの反証になる」と。その生が反映された「人間」の話って、どの世界にもたくさんあると思います。そういう報告書を読ませてもらったり、そういう活動方針や編集方針を聞いていると、学ばせてもらうことがたくさんあるんですよ。80代のその方々から。映像作成しているチームの子とか、インタビューなど人に話を聞きたいと思っている子が、民話の会の所作や態度に惚れ込んで集まり始め、映画になったり、読書会が始まったり・・・。あの方達が一途にやってきた個人の渇望や欲望を反映した民話採訪というアクションがあったから、私たちもここまで掻き立てられたんだなと。逆に、それがなかったら、松本くんも言っていたけれど、どう残したらいいかわかんない、どう撮っていいのかわかんないというのが絶対あると思うんですね。対話をしながら、一連を協働で経験してくると、じゃあつぎの採訪ではこういう風にやってみようっていう風に、採訪という最初のアクションにまで一周まわって、循環してくる。話を聞いて、撮って、編集して、DVDをつくって、それを利活用して…全部の活動が、アーカイブをめぐるアクションとして捉えられるなと。やっぱり一番は個人の欲望じゃないかなと思ってます。それが、どのように記録するか、どのように活用するかを決めてくるんじゃないかなと思います。
(2015年7月19日大阪大学文学研究科於)
清水チナツ(しみず・ちなつ)
1983年福岡県北九州生まれ。せんだいメディアテーク学芸員。大学卒業後、NPO法人Art Institute Kitakyushuに所属し、地元作家の展覧会の企画運営を行う。その後、インディペンデントキュレーター遠藤水城とともにインドネシアのアートシーン調査、CREAMヨコハマ国際映像祭アシスタントキュレーター、東京・神保町「路地と人」運営メンバーを経て、現職。メディアテークでは、市民(在野の学習者)とともに展覧会企画制作/メディアセンター運営/フリーペーパーや書籍の編集/対話の場づくり/伝承民話の記録活動にとりくんでいる。NPO remoメンバー。